(1908年1月3日、東京朝日新聞)
江西省の巡撫は、孫逸仙(孫文)の革命派が、再び江西・湖南の境界付近で蜂起するのではないかと考えている。そこで北京政府に対して、直ちに新式軍隊を派遣するか、そうでなければ江西省においてさらに多数の兵士を編成するよう要求した。
写真・図引用:https://k.sina.cn/article_6068062176_169af47e0001003j18.html?utm_source=chatgpt.com
⚫︎「孫逸仙」とは孫文のこと
ここでいう孫逸仙は、後に「孫中山」として知られる孫文(1866~1925)です。
1905年、孫文を中心に中国革命同盟会(中国同盟会)が結成され、清朝を倒して共和制国家をつくる革命運動が組織化されました。
当時の日本の新聞では、孫文を「孫逸仙」と表記するのが一般的でした。
⚫︎ 実は「江西・湖南」は革命運動の重要地域だった
この記事で江西・湖南方面が出てくるのは重要です。
1906年12月には、萍郷(江西)を中心とする武装蜂起が発生し、湖南省にも革命運動が波及しました。
孫文の革命派にとって、この地域はかなり早い段階から重要な活動地域だったのです。孫文の公式年譜でも、1906年12月に同盟会員らが江西・湖南で蜂起したことが記録されています。
したがって、1908年1月のこの記事が、「また江西方面で革命が起きるのではないか」という清朝側の警戒を報じているのは、前年の革命運動を踏まえたものです。
⚫︎ 1907年は孫文にとって「蜂起を繰り返した年」
1907年、孫文・中国同盟会は各地で清朝に対する武装蜂起を試みました。
代表的なものだけでも、
- 5月 広東・黄岡蜂起
- 6月 恵州・七女湖蜂起
- 8月~9月 欽州・防城方面の蜂起
- 12月 鎮南関蜂起
などがありました。
特に1907年12月の鎮南関蜂起は重要です。
鎮南関は現在の中国・ベトナム国境付近にある要衝で、孫文自身も革命派を指揮するため現地に入りました。孫文自身の1907年12月12日付の証明書にも、12月4日に鎮南関の砲台を攻撃した際に参加したことが記されています。
つまり、この新聞記事が出た1908年1月という時期は、まさに清朝政府が、「孫文の革命運動はまだ終わっていない。次はどこで蜂起するのか?」と神経を尖らせていた時期なのです。
⚫︎ なぜ「新式軍隊」が重要なのか
記事で特に注目したいのが、「新式軍隊を派遣」という部分です。
これは当時の清朝が直面していた大きな問題を示しています。
清朝は日清戦争(1894~95年)で日本軍に敗北した後、従来型の軍隊では近代戦に対応できないことを痛感しました。
そのため各地で、新軍(新式陸軍)の整備を進めました。
ところが、この「新軍」が後に非常に重要な意味を持ちます。
新軍には、
- 西洋式の軍事教育を受けた将校
- 日本などへの留学生
- 新しい政治思想に触れた青年
- 民族主義・立憲主義・革命思想に影響された軍人
などが含まれるようになりました。
つまり清朝は、「革命を鎮圧するために近代的な軍隊をつくる」一方で、「その近代的な軍隊自身が革命思想に影響される」という矛盾を抱えることになったのです。
そして、この問題が1911年の辛亥革命で決定的になります。
⚫︎ この記事は「革命が成功した」というニュースではない
タイトルが「孫逸仙再興の噂」となっていることも重要です。
これは「孫文の革命軍が再び蜂起した」という確定情報ではありません。
むしろ、「江西省の清朝官僚が、孫文派の再蜂起を予想して北京政府に軍事的な対策を求めている」という情報です。
したがって、記事から読み取れるのは、革命派の実際の軍事力というより、清朝地方政府がどれほど革命運動を警戒していたかという点です。
⚫︎ まとめ
この短い記事は、1908年初頭の中国情勢を理解するうえで意外に重要です。
| 項目 | 内容 |
| 人物 | 孫逸仙=孫文 |
| 時期 | 1908年1月 |
| 場所 | 江西・湖南方面 |
| 清朝側 | 江西巡撫 |
| 懸念 | 孫文系革命派の再蜂起 |
| 対策 | 新式軍隊の派遣、または江西で兵力増強 |
| 背景 | 1906年江西・湖南蜂起、1907年各地の蜂起 |
| その後 | 1911年辛亥革命・清朝崩壊へ |
特に面白いのは、この記事が「辛亥革命の3年前」に書かれていることです。
1908年1月の時点では、清朝はまだ存続しており、孫文の革命運動も各地で失敗を重ねていました。しかし、清朝地方官が「次の蜂起」を恐れて中央政府に新式軍隊の派遣を求めるほど、革命運動はすでに無視できない存在になっていました。
そして、その後も1908年には雲南方面の河口蜂起などが続きます。中国革命派の活動は、広東・広西だけでなく、湖南・江西・雲南などへ広がっていきました。シンガポールの孫文記念館も、1907年の鎮南関蜂起と1908年の河口蜂起が孫文らによって計画・指導されたことを記しています。


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