1908年01月03日 シベリア鉄道を国際鉄道として利用

1908年

(1908年01月03日、東京日日新聞)
 ロシアでは、シベリア鉄道を国際的な鉄道として利用するための便利な仕組みを作ろうとしている。昨年秋、ベルギーの首都ブリュッセルで、西ヨーロッパ各国とロシアの鉄道会社・汽船会社の代表者による連合会議が開かれ、各鉄道を相互に連絡させる方法について協議が行われた。その協議の結果としてまとめられた直通連絡案は、現在、ロシアの逓信省および大蔵省に提出され、認可を申請中だという。
 この案によれば、乗客は、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、オーストリアの各地から、一枚の通し切符(小冊子のような形式)を購入するだけで、ヨーロッパ → ロシア → シベリアを鉄道で通り抜け、一本につながった鉄道によってウラジオストク港まで行くことができる。そしてウラジオストクからは、海路で日本および中国へ往復することができる仕組みである。さらに、ロンドンと大陸ヨーロッパの間、またウラジオストクと日本・中国の各港の間で汽船を連絡運航する役割を担う会社として、次の会社が予定されている。
  ・フリッシンゲン(オランダ)のゼーランド会社
  ・パリのメッサジュリ・マリティーム会社
  ・ベルリンの北ドイツ・ロイド会社
  ・サンクトペテルブルクの義勇艦隊
これらの会社による連絡・直行運航は、1908年1月から実施する予定だという。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/203

写真・図引用:https://www.tripzilla.my/铁路爱好者终其一生的梦幻旅程:西伯利亚铁路之/7515

⚫︎ これは「シベリア鉄道+汽船」による国際交通網の構想

この記事の最大のポイントは、シベリア鉄道を単独の鉄道として見るのではなく、西ヨーロッパ → シベリア鉄道 → ウラジオストク → 船 → 日本・中国という国際的な一貫輸送ルートにしようとしていることです。

イメージするとこうなります。

ロンドン・パリなど
↓ 鉄道・汽船
ベルギー・オランダ・ドイツなど

ロシア西部

モスクワ方面

シベリア鉄道

ウラジオストク

日本・中国

つまり、現在でいう「国際乗継ぎ交通」の先駆的な発想です。

⚫︎ シベリア鉄道はロシア帝国の国家的大事業だった

シベリア鉄道の建設は1891年に始まりました。

ロシア皇帝アレクサンドル3世の時代に計画が本格化し、皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が起工式に参加しています。

実際の建設を強力に推進した人物として知られるのが、セルゲイ・ヴィッテです。

ヴィッテは財務大臣として、鉄道建設をロシアの工業化・東方進出と結びつけました。米国議会図書館も、シベリア鉄道計画を強力に推進した人物としてヴィッテを挙げています。

シベリア鉄道は単なる旅客鉄道ではありません。

ロシアにとっては、

① シベリア開発
② ロシア極東への人口・物資移動
③ 軍隊の輸送
④ 中国・満洲への影響力拡大
⑤ 太平洋への進出

という複数の目的を持っていました。

⚫︎ 1908年には「ほぼ大陸横断」が可能になっていた

シベリア鉄道は1900年ごろには、鉄道とバイカル湖などの船を組み合わせることで、ヨーロッパからアジアまで横断できるようになっていました。

1904年以降にはモスクワ方面から、

モスクワ
→ ウファ
→ チェリャビンスク
→ オムスク
→ クラスノヤルスク
→ イルクーツク
→ バイカル湖
→ チタ
→ 満洲
→ ハルビン
→ ウラジオストク

というルートが形成されました。

したがって、1908年の記事が報じているのは、単なる「将来の夢」ではありません。

すでに存在していたシベリア鉄道を、ヨーロッパの鉄道・汽船会社と組み合わせて、本格的な国際旅客輸送路にしよう

という段階だったのです。

⚫︎ 「一枚の通し切符」が画期的だった

この記事で特に面白いのが、「同一切符(小手帳の如き体裁)」という部分です。

つまり乗客は、鉄道会社ごとに別々の切符を買い直すのではなく、ヨーロッパからウラジオストクまで一貫した切符

を購入できるようにする構想でした。

現代でいう、国際連絡運輸に近いものです。

鉄道会社が国境を越えて連携し、さらに港では汽船会社へ接続する。

これは1908年としてはかなり近代的な交通システムでした。

⚫︎ なぜ「ウラジオストク」なのか?

当時のウラジオストクは、ロシア帝国の太平洋側の重要拠点でした。

ここから、

  • 日本
  • 中国
  • 朝鮮

などへ海路で接続できます。

したがって、シベリア鉄道=ユーラシア大陸を横断する陸路ウラジオストク=太平洋への出口を組み合わせることで、ヨーロッパと東アジアを結ぶルートが成立します。

⚫︎ 実は日本にとっても非常に重要だった

この記事が日本の新聞に掲載された背景には、日露戦争後の日露関係の変化があります。

1904~1905年の日露戦争では、日本とロシアは満洲・朝鮮をめぐって激しく対立しました。

ところが戦争後、両国は急速に関係を修復していきます。

1907年には日露協約が成立しました。

さらに1907年には、日本とロシアが満洲の鉄道を接続するための協定も結んでいます。

米国務省の外交文書には、1907年6月13日の日露間の鉄道接続協定が収録されています。日本側の南満洲鉄道とロシア側の東清鉄道を接続し、旅客・貨物の直接輸送を行うことが定められています。

つまり1908年は、日露戦争の敵国だった日本とロシアが、鉄道・経済面では協力関係を作り始めた時期でもあります。

⚫︎ 日本から見ると「欧州への最短ルート」になり得た

このルートの重要性を理解するには、当時のヨーロッパ―日本間の交通時間を考えると分かりやすいです。

従来、ヨーロッパから日本へ行くには、

ヨーロッパ

地中海

スエズ運河

インド洋

シンガポール・香港

日本

という海路が一般的でした。

一方、シベリア鉄道を使えば、

ヨーロッパ

ロシア

シベリア

ウラジオストク

日本

というルートが可能になります。

国土交通省の資料でも、当時の日本―欧州間では、スエズ経由の海路が30~40日程度なのに対し、シベリア鉄道経由なら25日程度という比較が示されています。

つまり、「ヨーロッパと日本の距離を、シベリア鉄道によって時間的に縮める」という意味があります。

⚫︎ この記事に出てくる4つの汽船会社

記事では、鉄道だけでなく、海上輸送会社との連携が重要視されています。

ゼーランド会社
オランダのフリッシンゲン(Vlissingen)を拠点としたZeeland Steamship Companyです。
北海を通じてイギリス・大陸ヨーロッパを結ぶ役割を担います。

メッサジュリ・マリティーム
フランスのMessageries Maritimes
マルセイユを拠点とするフランスの大手海運会社で、東アジア航路を運航していました。
当時の広告資料にも、日本とヨーロッパを結ぶ同社の航路が確認できます。

北ドイツ・ロイド
ドイツのNorddeutscher Lloyd
本拠地はブレーメンで、日本・中国など東アジアへの航路を持っていました。

1908年の同社資料では、横浜 → 神戸 → 長崎 → 上海 → 香港 → シンガポール → コロンボ → スエズ → 地中海 → ヨーロッパという航路が確認できます。

義勇艦隊
ロシアのVolunteer Fleet(Добровольный флот)
名称だけを見ると民間会社のようですが、実際にはロシア政府と非常に密接な関係を持つ海運組織でした。
ウラジオストクから日本・中国方面へ接続する重要な役割を担っていました。1900年代初頭の資料でも、ウラジオストクと日本・中国を結ぶ船舶として義勇艦隊が使われていたことが確認できます。

⚫︎ 「国際鉄道」という言葉の意味

この記事の「国際鉄道」という言葉は、「国境を越えて一本の鉄道路線にする」という意味ではありません。

実際には、複数の国の鉄道会社を、切符・時刻表・乗継ぎ・料金などの面で連絡させるという意味です。

つまり、

イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・オーストリア

ロシア鉄道

シベリア鉄道

ウラジオストク

日本・中国航路

という、国際複合交通ネットワークを作ろうとしていたわけです。

⚫︎ まとめ

この記事の核心は、「シベリア鉄道を、ロシア国内の鉄道ではなく、ヨーロッパと東アジアを結ぶ国際交通ルートにしようとしている」ということです。

特に重要なのは次の4点です。

① シベリア鉄道が国際交通路へ
1908年にはシベリア鉄道を利用して、ヨーロッパからウラジオストクまで人を運ぶ構想が現実味を帯びていました。

② 「通し切符」が登場
複数の国の鉄道会社をまたいで、一枚の通し切符で移動できる仕組みが計画されていました。

③ ウラジオストクから日本・中国へ
鉄道だけではなく、鉄道+汽船を組み合わせることで、ヨーロッパと日本・中国を結ぶ国際交通網を形成しようとしていました。

④ 日露戦争後の国際関係の変化を象徴している
わずか3年前まで日本とロシアは戦争をしていました。
しかし1907~08年になると、
 日露協約
 → 満洲の鉄道接続
 → 国際交通・貿易

という新しい関係が形成されつつありました。1907年の日露鉄道接続協定も、旅客・貨物の直接連絡を明確に想定しています。

したがって、この1908年の記事は、単なる「鉄道ニュース」ではなく、日露戦争後に、ユーラシアの交通・経済秩序そのものが変化し始めたことを伝える記事として読むと非常に興味深いです。

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