(1907年11月14日・京城新報)
皇帝が住居を移される「移宮」の問題について、太皇帝(高宗)は、最初から不満を示されていたという。
今回、ついに移宮が決定したことについて、高宗は非常に落胆され、ここ数日、側近を呼び寄せて、「何とかして移宮を延期することはできないだろうか」という意向を示された。
そしてついには、ある侍従を統監邸へ派遣し、「皇太子が日本へ留学する時期も、もう間もなくである。それまで何とか移宮を延期してもらいたい」という希望を伝えたという。
しかし、すでに関係者が激しく議論したうえで一度決定したことなので、延期することはできないとして拒否された。そのため、高宗はその後、毎日のように涙を流しておられると伝えられている。
写真・図引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ACrown_Prince_of_Korea_Yi_Un_01.jpg?utm_source=chatgpt.com
⚫︎ 「太皇帝」は高宗
この記事の「太皇帝」とは、高宗(李熙)です。
高宗は朝鮮王朝末期から大韓帝国初期の皇帝でしたが、1907年7月、ハーグ密使事件をきっかけとして退位させられました。
その後、息子の純宗が皇帝となりました。
したがって、この時期の高宗は、「現皇帝」ではなく「太皇帝」という立場でした。
⚫︎ 「移宮」とは何か
ここでいう「移宮」は、高宗がそれまで暮らしていた宮殿から、別の場所へ住居を移すことを指します。
背景には、高宗が退位した後も宮中に強い影響力を持っていたことがあります。
日本側・統監府側からすれば、高宗の政治的影響力を抑えることは重要な問題でした。
そのため、高宗の居所を移すことには、単なる「引っ越し」以上の政治的意味がありました。
⚫︎ 高宗は日本への警戒を強めていた
1907年には、
ハーグ密使事件
→高宗退位
→純宗即位
→第三次日韓協約
→韓国軍解散
と、日本の韓国に対する政治的・軍事的影響力が急速に強まりました。
高宗から見ると、自分の退位に続いて住居まで移されることは、自らの政治的立場がさらに失われていくことを意味しました。
そのため、この記事では高宗が移宮を非常に悲しんでいると報じています。
⚫︎ 皇太子の「日本遊学」
記事には、「皇太子の日本遊学もすでに間もなきことなれば」とあります。
これは純宗の皇太子だった李垠(李王世子)の日本留学を指します。
李垠は1907年12月、日本へ渡り、軍事教育を受けることになります。
高宗は、「息子が日本へ行くのだから、それまでは移宮を延期してほしい」と申し入れたわけです。
しかし、その願いも認められませんでした。
⚫︎ まとめ
この記事は、1907年の高宗が政治的・心理的に追い詰められていった状況を伝えています。
ポイントは4つです。
- 「太皇帝」は、退位させられた高宗。
- 高宗の居所を移す「移宮」が決まり、高宗は延期を求めた。
- しかし統監府側は、すでに決定したこととして拒否した。
- 記事は、高宗がその結果を深く悲しみ、涙を流していると報じている。
つまり「移宮」は単なる住居変更ではなく、高宗が政治的・宮廷的な影響力を失っていく過程の一場面として見ることができます。
特にこの記事は、11月5日の「東宮御渡韓と日韓の国交」と対照的です。
日本側新聞:皇太子訪韓による日韓親善を強調
この記事:高宗が日本側の政策に苦悩している姿を報道
同じ1907年11月の日韓関係を、かなり異なる角度から見ることができます。


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