1907年09月18日 綿ネルの一進歩

1907年

(1907〈明治40〉年9月18日『中外商業新聞』)
 日本の綿ネル(コットン・フランネル)製造業は、紀州(現在の和歌山県)で始まって以来、年々発展を続けてきた。その後、京都ネル会社が設立され、さらに高級品の製造が試みられるようになり、品質は外国製品と比べても見劣りしないほど優れたものとなった。しかし、それでもなお外国製品を日本市場から完全に追い出すまでには至らず、業界関係者はそのことを残念に思っていた。
 ところが昨年、大阪の高崎善三郎氏は、フランスから最新式の捺染(なっせん:布地への模様印刷)機械を輸入し、さらに独自の改良を加えた結果、両面に模様を印刷した綿ネルの製造に成功した。昨年から見本を配布し始めたところ、従来の片面だけに模様がある製品と違い、表裏とも同じ模様であるため、単衣(ひとえ)の着物などに仕立てると見た目が非常に良くなると評判になった。
 さらに、縞模様、ぼかし模様、飛白(かすり風模様)など、美しい新しいデザインも次々と考案されたことから、人々の好みに合い、注文は次第に増加している。このような綿ネル製造技術の進歩によって、これまでイギリスやドイツから輸入されていた綿ネル製品を国産品へ置き換えることができ、とりわけイタリア製綿ネルは、遠くない将来、日本市場から姿を消すことになるだろうと見られている。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/180

写真・図引用:https://www.kawashimaselkon.co.jp/stories/culture/1505/?utm_source=chatgpt.com

⚫︎ 綿ネルとは何か

綿ネル(綿フランネル)とは、綿織物の表面または両面を起毛して柔らかく仕上げた布地です。

「ネル」は英語 Flannel(フランネル) に由来し、明治時代には

  • 肌着
  • 寝巻き
  • 子ども服
  • 単衣の着物
  • 和装の裏地

などに広く用いられました。

もともとはヨーロッパから輸入される高級織物でしたが、明治後期になると国産化が進みました。

⚫︎ 紀州から始まった国産綿ネル産業

記事にあるように、日本の綿ネル産業は紀州(現在の和歌山県)で発展を始めました。

紀州は江戸時代から木綿織物が盛んな地域であり、その技術を基盤に近代的な織物工業へと発展しました。

その後、

  • 京都
  • 大阪
  • 愛知

などにも生産が広がり、日本の紡績・織布産業の重要分野となりました。

⚫︎ 捺染技術の革新

記事で最も重要なのは、フランス製最新式捺染機械の導入です。

捺染とは、木版やローラーなどを使って布地に模様を印刷する技術です。

明治後期にはヨーロッパから最新の機械が導入され、

  • 多色印刷
  • 精密な模様
  • 大量生産

が可能になりました。

高崎善三郎はさらに機械を改良し、表裏両面に同じ模様を印刷する技術を完成させました。

これは当時としては大きな技術革新でした。

⚫︎ 輸入代替と日本工業

記事では、

  • イギリス
  • ドイツ
  • イタリア

から輸入される綿ネルとの競争が語られています。

明治政府は殖産興業政策の下で、「輸入品を国産品へ置き換える(輸入代替)」ことを重要な産業政策としていました。

綿ネルもその代表例で、品質向上によって外国製品に勝つことが、日本の工業発展の目標でした。

記事はその成果を誇らしく伝えています。

⚫︎ 明治時代の「国産品奨励」

この記事には当時の経済ナショナリズムも表れています。

最後には、イタリア製綿ネルは近いうちに市場から姿を消すだろうとまで予測しています。

実際には輸入品が完全になくなったわけではありませんが、

  • 技術導入
  • 機械化
  • 品質向上

によって、日本の繊維産業が急速に競争力を高めていたことは事実です。

この繊維産業の発展は、後に日本最大の輸出産業となる綿製品工業の基礎となりました。

⚫︎ まとめ

  • 日本の綿ネル産業は紀州を中心に発展し、明治後期には外国製品に匹敵する品質へ成長した。
  • 大阪の高崎善三郎はフランス製の最新捺染機械を導入・改良し、両面捺染綿ネルの製造に成功した。
  • 表裏とも美しい模様を持つ新製品は市場で好評を博し、注文が増加していた。
  • 当時の新聞は、この技術革新によってイギリス・ドイツ・イタリア製品に代わる国産品の時代が来ると期待していた。
  • この事例は、明治時代の殖産興業政策と日本の繊維工業の技術革新を象徴する出来事の一つである。

コメント