(1907年7月23日『東京朝日新聞』、朝鮮22日発)
宮中(皇宮内部)の一派による陰謀が次第に明らかになってきた。彼らが新皇帝に対して公然と反逆行為を行ったことが明白となったため、正午前から大規模な逮捕が始まった。まず、侍従院卿の季道宰は正午に、さらにその日新たに任命された宮内大臣の朴泳孝は午後3時に、それぞれ自宅で警務庁の警官によって逮捕された。
また、陸軍教育局長の李甲、侍従武官の魚潭、侍衛連隊第三大隊長の李載徳らは、日本側の韓国駐在憲兵によって逮捕された。軍部局長や研成学校長の季某については、まだ逮捕には至っていない。さらに元老の南延哲もまもなく逮捕される見込みである。
各大臣は依然として宮中に留まっており、宮廷内は大変な混乱状態となっている。しかし市中は今のところ静穏である。
この記事は1907年の極めて重要な政変、すなわち大韓帝国における皇帝退位と権力再編の混乱を報じています。
直接の発端となったのは、1907年のハーグ密使事件です。
高宗 は、日本による保護国化に抵抗し、オランダ・ハーグで開かれた国際会議へ密使を送り、日本の韓国支配の不当性を訴えようとしました。
しかし列強はこれを正式には取り上げませんでした。むしろ日本側は「保護国の外交権は日本が掌握しているのだから、高宗の行動は協約違反だ」と判断しました。
結果として日本は強い圧力をかけ、高宗は退位へ追い込まれます。
皇位は息子の純宗へ譲位されました。
この記事でいう「新帝」とは純宗を指しています。
記事で特に注目すべき点は、日本の憲兵が韓国政府高官を直接逮捕している部分です。
韓国は形式上は独立国でしたが、実際には日本側の軍事・警察権力が強く浸透していたことを示しています。
同年7月にはさらに第三次日韓協約が締結され、日本は韓国の内政にも深く介入するようになります。
◾️ まとめ
この記事から読み取れる重要点は次の5点です。
- 高宗退位直後の韓国宮廷では激しい権力闘争が起きていた
- 日本側は宮中勢力を「反逆勢力」として扱った
- 日本憲兵が韓国高官を直接逮捕しており、日本の実効支配が進んでいた
- 韓国側では日本への抵抗運動と宮廷政治が結びついていた
- この一連の事件は1910年の韓国併合への流れの中間段階だった
この記事は単なる「逮捕事件」ではなく、大韓帝国が独立国家としての実質的な権限を急速に失っていく過程を示す史料です。


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