【9月5日、東京朝日新聞】
兵士たちの講和に対する感情(大阪発)
屈辱的な講和が結ばれたという悲報が当地の兵営に伝わるや、誰一人として政府の大失態を憤らない者はありませんでした。特に歩兵第37連隊(和歌山連隊区から編成)の憤激はとりわけ激しく、その中でも間もなく出征する予定の補充大隊は、8月31日午後9時半、消灯ラッパの合図とともに全員が静かに就寝しました。
しかし、屈辱的な講和に対する無念の思いに堪えられなかったのでしょう。一人は嘆き、一人は怒り、ついには大声を上げて叫ぶ者が続出しました。剣を手にし、枕を蹴飛ばし、ついには思わず営外に飛び出す者まで現れました。その数は第一中隊を中心に、実に200名以上。皆で悲壮な軍歌を歌いながら兵営を二、三度も練り歩き、その意気は天を衝き、一大事件に発展しかねない形勢に至りました。
当直の中隊長は大いに驚き、あらゆる手を尽くして兵をなだめました。さらに隣接する第8連隊でも警戒態勢を敷いたため、なんとか大事には至らず、ようやく事態は収まりました。なお、実際にはここに伝えた以上の深刻な事態もあったようですが、今のところそれ以上の詳しい報告はできません。
この出来事は、単なる「不満」ではなく、軍隊内部での規律崩壊の危険性 を示しています。
日本軍は「忠君愛国」「天皇の軍隊」として、政治批判や不平を許さない建前がありましたが、実際には、戦地に送られる兵士たちも「自分たちの犠牲が無駄になる」と強く感じ、暴発寸前までいったのです。
政府・軍当局にとって、兵士の反乱や暴動は国家体制そのものを揺るがしかねないため、記事では「事実はもっと深刻だったが詳しくは書けない」と伏せられています。
この事件は後に続く 日比谷焼打事件(1905年9月5日〜7日) のような国民の暴動と並んで、講和への不満が国全体に広がっていたことを示すエピソードの一つといえます。
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