1906年12月31日 明治三十九年(1906年)の回顧

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.189

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(1906年12月31日・東京朝日新聞)
(前略)
 韓国に対しては、伊藤博文侯爵がいる。同氏が統監に就任することは、すでに桂太郎内閣の時代に決まっていた。いや、むしろ昨年、伊藤侯が渡韓した際、韓国皇帝と面会した席で内定していたと言うべきであろう。
 統監府は2月1日に開庁され、千年以上前に置かれた日本府の旧縁を継承し、それを北へと押し進めて、京城南山に鎮座した。そして新統監はいよいよ行動を開始し(2月7日)、韓国を保護する事業を完全に成し遂げられるかどうか、また鴨緑江以東における日本の戦勝の成果を十分に収穫できるかどうかは、すべて伊藤侯の責任にかかっている。
 そして、国際政治における日韓関係の現状は、すでに
日英協約およびポーツマス条約によって、さらに伊藤侯の現地での尽力によって、本年中に確定したのである。

 満洲政策についての西園寺公望内閣の施策も、非難すべき点は多くない。満洲経営委員会の委員長であった故児玉源太郎の貢献によるところも大きいと言わねばならない。
 その施策の根幹は、言うまでもなく鉄道にある。日本が勝ち取った鉄道、日本が軍費で経営する鉄道によって、朝鮮半島を経て日本本土をヨーロッパへと連結し、世界的交通幹線の重要な一部を維持するとともに、その支線によって日本の通商貿易の利益を大陸に広げる基礎を築くことができる。これを成し遂げるには、鉄道によるほかはない。
 さて、この鉄道を官営とすべきか、それとも民営とすべきか。官僚や軍人は当然官営を良しとしたが、経営委員会が2月28日に開かれて間もなく、これを一つの会社に委ねることが決定された。これは賢明な判断であった。
 半官半民の会社組織を命じる勅令が6月9日に出されたとき、われわれはむしろ喝采を送った。政府は大株主となるだけで十分であり、会社には独立して経営させるべきである。
 行け、
後藤新平新総裁よ。鉄道と満洲は、しばらく君の手に委ねる。韓国が伊藤侯に委ねられたのと同じである。すでに任せたのだ、どうして疑うことがあろうか。
(後略)

◾️ 「回顧」記事の性格

本記事は、1906年(明治39年)という一年を総括し、日本の対外政策の成果を肯定的に振り返る論説です。東京朝日新聞は当時、比較的理知的な論調を持ちながらも、帝国日本の国際的地位向上を評価する立場をとっていました。

◾️ 韓国統治と伊藤博文

1905年の第二次日韓協約により、日本は韓国の外交権を掌握し、1906年に統監府を設置しました。本記事は、伊藤博文を「韓国保護」を完成させる責任者として位置づけ、

  • 日露戦争の戦果を政治的成果に転化できるか
  • 韓国支配を安定させられるか

という重責を担う人物として描いています。

◾️ 国際条約による「既成事実化」

日英協約とポーツマス条約により、日本の韓国・南満洲での優越的地位は列強に承認されました。記事は、日本の対韓政策が国際政治上も正当化されたという認識を強調しています。

◾️ 満洲経営と鉄道中心主義

後半の主題は満洲政策であり、その核心として「鉄道」が繰り返し強調されます。ここで念頭に置かれているのが、のちに設立される南満洲鉄道株式会社です。

  • 軍事輸送
  • 大陸交通の要衝確保
  • 通商・資源開発

を一体で担う存在として、鉄道が「帝国経営の大動脈」と見なされていました。

◾️ 半官半民モデルへの評価

官営一択ではなく、半官半民会社として独立経営させる判断を「喝采すべきもの」と称賛している点は重要です。これは、

  • 官僚的硬直を避け
  • 機動的な経営を可能にする

という、当時としては先進的な経済運営思想を反映しています。その象徴が後藤新平の総裁就任でした。

◾️ まとめ

この「回顧」は、

  • 韓国統監府の設置
  • 満洲鉄道経営の方針決定

という二つを、日本が列強の一角として行動し得る段階に到達した証として描いています。
同時に、後年の植民地支配と大陸進出の起点を、当時の日本社会がいかに自信と期待をもって受け止めていたかを知るうえで、極めて示唆的な史料です。

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