(1906年5月11日 官報)
勅令
朕(天皇)は、明治38年11月10日、東京において、朕の全権委員とアメリカ合衆国の全権委員とが署名・調印した日米間の著作権保護に関する条約を批准し、ここにこれを公布する。
御名御璽
明治39年5月10日
内閣総理大臣 兼 外務大臣 侯爵 西園寺公望
内務大臣 原 敬
(以下略)
◾️ 何が公布されたのか
この記事は、日本とアメリカ合衆国との間で締結された「著作権保護条約」が、正式に批准・公布されたことを伝えています。
つまり、
・日本人の著作物(書籍・音楽・美術など)がアメリカで保護され
・アメリカ人の著作物も日本で保護される
という相互保護の国際条約が、国内法と同様の効力を持つようになった、ということです。
◾️ なぜこの条約が必要だったのか
19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本では次の問題が顕在化していました。
・欧米の書籍・楽譜の無断翻訳・無断出版
・逆に、日本人作家の作品が海外で保護されない状態
・国際的に「著作権意識が低い国」と見られる懸念
特にアメリカは出版・音楽産業が急成長しており、日本との間で権利関係を明確にする必要がありました。
◾️ 国際条約としての位置づけ
この日米条約は、日本が
・近代国家として
・国際的な知的財産制度を尊重する国
であることを示す重要な一歩でした。
当時、日本はすでに
・万国郵便条約
・通商条約
・電信・通信分野の国際協定
などに参加し、「条約を守る国家」としての信頼構築を進めていました。著作権条約もその流れの中にあります。
◾️ ベルヌ条約との関係
1906年当時、アメリカはまだベルヌ条約(文学的及び美術的著作物の保護に関する条約)に加盟していませんでした。
そのため、二国間条約によって個別に著作権を保護する方式が取られていたのです。
◾️ 政治的意味合い
公布文に名を連ねる人物にも注目できます。
・西園寺公望:内閣総理大臣兼外務大臣
・原敬:内務大臣(後の総理大臣)
これは、著作権問題が単なる文化問題ではなく、
・外交問題
・産業政策
・国家の信用
に関わる重要事項として扱われていたことを示します。
◾️ 当時の日本社会への影響
この条約公布により、
・出版社・作家は海外展開を意識するようになり
・翻訳出版にも正式な契約意識が芽生え
・知的財産を「保護すべき財産」と見る考え方が広がった
という効果がありました。
◾️ まとめ
この記事は一見、形式的な官報記事ですが、実際には、
・日本が文化・知的財産の分野でも国際標準に歩み寄った
・日米関係が経済・文化面でも深化していく
・「無断利用が当たり前」だった時代からの転換点
を示す、近代日本にとって重要な節目を伝えています。


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