(1906年3月16日・都新聞)
現在の落語・講談の世界には、十分な学識をもつ人物がいないことを、世間の人たちは等しく残念に思っていた。ところが今、神田にある明治学館の館主である大谷内新吉氏(号・越山)は、自らその欠点を補おうと決意した。
彼は「社会の改良は下層から始めるべきである」という考えのもと、明治学館を弟子に譲り、自らは思い切って落語家の世界に飛び込むことにした。そして来る4月1日から柳派(柳亭派)の寄席に出演するという。
これまで同館で彼が教え導いた門弟はおよそ2700人にのぼり、その中には大学を出て官僚など相当の地位につく者も少なくない。特に大槻如電、戸川残花、加藤咄堂らの諸氏が彼を後押しして熱心に応援しているとのことである。
そうした支持を受けて高座に姿を見せるとなれば、演芸界において大きな話題となることは間違いないだろう。
■ 明治学館とは?
明治時代に東京(神田)にあった、漢学・漢文教育を中心とする私塾・学校の一つ。当時は旧来の漢学が衰退しつつある一方で、官僚や知識人層を目指す若者の教育機関として一定の役割を果たしていた。
この記事の「明治学館主」大谷内新吉(越山)は、その運営者・教師だった人物。
■ 1900年代の落語・講談界の状況
明治後期の寄席芸能界は、
・「芸はあるが学識に乏しい」と批判されることが多かった
・文学者からの評価も分かれ、芸人の社会的地位はまだ低かった
という状況にありました。そのため「学者的教養を持つ人物が芸界に入れば良いのに」という期待が一部から語られていたのです。
■ 教育者が落語・講談の世界へ飛び込むという衝撃
越山は、
・多くの教え子(2700人以上)
・その中には官僚や学士(大学卒)も多数
・文壇の人物(大槻如電、戸川残花、加藤咄堂)の後援まである
という「知識人・教育者」としての確固たる地位を持っていました。
その人物が 「社会改良は下層から」との思想で、教育界を離れ芸人の世界へ入る ——これは当時としては非常に異例で、センセーショナルな出来事でした。寄席芸能はまだ「下層・庶民の娯楽」とみなされ、学者や教員が飛び込むことはほとんど考えられなかったからです。
■ 柳派に入門する意味
「柳派(柳亭派)」は講談の大きな流派で、格式もあり当時の講談界では一大勢力でした。そこに教育者が加わることで、
・学識ある講談師の誕生
・観客の層が広がる可能性
・芸能の文化的格を高める期待
などが語られ、新聞記事にもあるように「演芸界の異観(異例の華やかな出来事)」として注目されたのです。


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