1906年02月27日 南昌騒擾(そうじょう)事件

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.54

(1906年2月27日、東京朝日新聞)
● フランス人宣教師の責任問題(26日・上海発)
 例の江西省南昌県で、知県(地方官)である江昌棠氏が負傷した件については、フランス人宣教師が原因であるといわれている。外務部(清国外交当局)は、フランス公使に対し現在厳しく交渉中である。江西省内はもちろん、清国民全体も本件に関して非常に憤慨しており、事態は重大である。

● 事態の悪化
 江西省南昌県では、暴徒がアメリカ人宣教師キンハム夫妻とその子ども、および天主教(カトリック)宣教師6名を殺害し、複数の教会が襲撃された。
 さらに続報として、各宗教団体の施設がすべて襲撃され、江西省の巡撫(省最高行政責任者)は、殺害された10名を除き、その他の外国人を小型汽船で九江へ避難させたという。

● アメリカ軍艦の出動
 アメリカ軍艦 「エレヤノ(推定:エリヤノ or El Cano)」 が南昌へ急行した。

事件の位置づけ

 この報道は、清朝末期に各地で発生した反キリスト教・反外国勢力の暴動の一例です。
 特に19世紀後半以降、欧米列強の進出、布教活動の拡大、治外法権を背景とした宣教師の影響力増大により、民衆の反感・民族感情が高まっていた時期にあたります。1900年の義和団事件(北清事変)が終息してからわずか6年後であり、外国人排斥感情は依然として強く、地方行政も民衆を完全に統制できていませんでした。

南昌という場所

 江西省南昌は、当時もキリスト教宣教活動の拠点のひとつで、欧米宣教師の居住や教会活動が盛んでした。しかし反外国感情が根強い地域でもあり、宗教・文化摩擦が激化しやすい土地柄でもありました。

外交上の緊張

 宣教師は多くの場合外国の外交・軍事力によって保護されていたため、外国人宣教師への危害 = 国家間問題(賠償・謝罪・処罰要求)につながりやすく、今回もフランス・アメリカ・清国政府の間で国際紛争化の危険性がありました。
 特に米艦の急派は、アメリカが自国民保護のため武力行使も想定していたことを示唆し、事態は極めて重大と認識されています。

歴史的意義

 この事件は、以下を象徴する出来事といえます。
  • 清朝統治の弱体化
  • 外国勢力と中国内社会の摩擦
  • 義和団事件後も続く反西洋感情
  • 宣教師問題(文化的・宗教的衝突)
  • 列強による「武力を背景とした保護外交」の継続

最終的に、こうした内外矛盾が蓄積し、辛亥革命(1911)による清朝崩壊へとつながっていきます。

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