1906年02月24日 戦争税継続法案、貴族院で可決

1905年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.53

(2月24日・中外商業新報)
二つの重要法案が成立
 減債基金に関する法案と、戦争税を継続する法案という二つの重要法案は、衆議院での審議とほぼ同様の議論と経過をたどり、23日に貴族院でも可決・成立した。前者(減債基金法案)は意外にも議論が少なくスムーズに進んだが、後者(戦争税継続法案)は大いに議論が沸騰した。
 すなわち、第1議会では谷子爵(※谷干城と思われる)の反対意見は退けられ、第2議会では曾我子爵が「戦争税は明治41年(1908年)3月31日で廃止すべきだ」という修正案を提出した。これに対し三島子爵(※三島弥彦の父・三島通陽か)が、「この修正案は政府を退路のない状況に追い込むものである」と批判し、さらに期間限定を設けることは無意味であると論じた。また平山氏も修正案は無謀であると警告した。
 すると、谷子爵が再び登壇し修正案を支持し、「私は第一の塁(最初の主張)で破れたので、次は第二の塁に立って戦う者である」と強く述べた。しかし記名投票の結果、賛成57票に対して反対82票で修正案は否決された。その後、議会は第三読会に入り、衆議院と同様の理由により政府原案が可決・成立した。

「戦争税」とは何か

 ここで議論されている戦争税とは、日露戦争(1904〜1905)で増大した国家財政負担を補うために導入された臨時増税のことです。主に以下の税目が対象でした:
  • 酒税
  • 砂糖消費税
  • たばこ税
  • 関税
  • 所得・営業に関わる税率引き上げ
これらは本来「戦後一定期間で廃止される臨時税」とされていました。

なぜ廃止をめぐり紛糾したのか?

 日本は日露戦争に勝利したものの、戦費約19億円の大赤字を抱えました。戦費調達のための外債発行(主に英米市場)は負担を残し、戦後も歳出は拡大し続けました。そのため政府は「税収を維持しないと財政破綻する」として継続を主張しました。
 一方反対派は、
  • 国民負担の過重化
  • 「臨時」の名目に反する
  • 軍事拡張財源化の懸念
  • 戦争勝利後の国民への恩恵説
を根拠に廃止または期間限定の継続を求めました。

議論に見える政治的対立

主な主張者立場 内容
三島子爵ら政府・財政安定派 戦争税は引き続き必要
曾我子爵制限付き継続派 期限を区切り明確化すべき
谷子爵反対→修正支持派 最初は反対、その後妥協案へ

谷子爵の
 「第一の塁が破れたので第二の塁に拠る」
阿という発言は、完全廃止 → 期限つき継続という妥協姿勢を戦場の比喩で語ったものです。

結果と歴史的意義

 法案は政府の原案通り可決し、戦争税は継続されました。
 この動きは後の軍拡財源確保と「常時非常時化」する財政体制につながり、やがて第一次世界大戦・満州事変・日中戦争・太平洋戦争への軍事国家化の一因とも解釈されます。

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