1906年02月22日 東宮御所の大食堂

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.52

(2月22日・萬朝報)
 現在建設が進められている東宮御所(皇太子の御所)は、いよいよ完成に近づき、その壮麗さを目を見張るほどであり、次々と華やかな装飾が加えられている。中でも大食堂の内装は、日本工芸の粋を集め、美術の精華を尽くしたものと伝えられる。
 その設計はどのようなものかと言えば、四方の壁面には楕円形の「七宝焼(しっぽうやき)」三十数面がはめ込まれ、その縁取りには、帝室技芸員であり彫刻家として名高い 石川光明 が象牙で彫り上げた唐草模様の装飾が施される。前述の七宝は、名工として知られる 濤川惣助(なみかわ そうすけ) が制作するという。
 そして、その七宝に描かれる絵は 荒木寛畝(あらき かんぽ) が担当し、花鳥画は寛畝とその弟子の 荒木十畝(じっぽ) が描き、鹿・牛・兎などの動物は 池上秀畝(いけがみ しゅうほ) が筆をふるうという。
 石川と濤川の二名の技量は、このような御用を勤めるに申し分ないが、寛畝一門の絵師がこの大役を任されたことは、まことに栄誉であると言える。

背景解説

 この記事が報じているのは、完成間近の「東宮御所」(現・迎賓館赤坂離宮) の内部装飾についてです。この御所は当時の皇太子(後の大正天皇)のために建設されたものです。記事に登場する固有名詞はいずれも当時の日本美術の最高峰の職人・工芸家で、宮内省による国家的事業の規模を示しています。

「東宮御所」=現在の迎賓館赤坂離宮(の前身)

 この「東宮御所」は
  • 明治42年(1909)竣工
  • 西洋宮殿様式を取り入れた日本初の本格的洋風宮殿
として知られ、現在の 迎賓館赤坂離宮 の前身にあたります。記事は1906年の段階なので、まさに工事が最終段階に達していた頃です。

大食堂の装飾=国家工芸の総力戦

 記事に名前の挙がっている人物は、当時の美術界・工芸界の最高峰です。
  ● 石川光明(いしかわ みつあき)
   • 帝室技芸員
   • 明治最高の象牙彫刻家
   • 宮内省御用も多い
   → 象牙による唐草彫刻は当時の最上級工芸
  ● 濤川惣助(なみかわ そうすけ)
   • 七宝焼の革命児
   • 「無線七宝」技法の創始者
   • パリ万博等で国際的評価が高い
   → 東宮御所の装飾に彼の七宝が使われるのは国家の威信を象徴。
  ● 荒木寛畝・十畝(かんぽ・じっぽ)
   • 日本画の重鎮
   • 帝室技芸員級の評価
   • 花鳥画の名手
   → 七宝に描かれる絵の下絵(図案)を担当。
  ● 池上秀畝(しゅうほ)
   • 動物画の名手
   • 文展でも高い評価
   → 鹿・牛・兎など動物画を担当。

つまり、大食堂は「日本画×七宝×象牙彫刻」、「当時日本が世界に誇る工芸の総合演出」で飾られることになっていたのです。

なぜ豪華なのか?

 背景には以下の理由があります。
  ● ① 「東宮御所」=未来の天皇の宮殿
    皇太子の居所であり、外国使節を迎える“国の顔”であるため、国家として最上級の工芸を投入した。
  ● ② 外交と国家ブランドのため
    日露戦争後、日本は列強入りを果たしたばかりで、国家の威信を象徴する建築・美術 が必要だった。
  ● ③ 工芸振興政策
    宮内省は帝室技芸員制度を使って、優秀な工芸家に大きな仕事を与え、日本美術の国際的地位を高める意図もあった。

大食堂はその後どうなったか?

 大食堂(現在の迎賓館の「花鳥の間」)は、今も七宝・彫刻・日本画の意匠が残り、館内随一の豪華さとされます。この記事に書かれた装飾計画はそのまま現存する美術空間の“誕生前夜”の記録 と言えます。

<東宮御所(現、迎賓館赤坂離宮)へのリンク>

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