1906年02月04日 韓国統監の兵力使用権と一部軍人の言動

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.40

(1906年2月4日・萬朝報)
 統監府の制度(府制)には、「統監は必要な場合、韓国駐留軍の司令官に対して兵力の使用を命じることができる」と定められている。ところが、この規定に在韓(韓国駐留)日本軍の一部軍人たちが不満を抱いているという。
 韓国駐箚軍の大谷参謀長(=大谷喜久蔵中将)は、この件について意見を伺うため、日本に帰国して山県有朋大山巌らの元老・軍閥首脳に稟議(報告と相談)を行う予定だという。このような不満は、実は日本国内の軍人たちの間にも以前から唱えられていたが、今回の大谷参謀長の帰国によって、その不満や主張がさらに勢いを増しそうな様子である。
 しかしながら、これは断じて僭越(せんえつ)であり、誤りであり、妄言である。統監という職に任ぜられた者は、それが文官(伊藤博文)であれ、武官(山県有朋)であれ関係なく、対韓政策全体の統一的運営のために、兵力を使用する権限を持つのは当然のことではないか。われわれ(記者・論説者)は、一部軍人が本来の「謙虚にして抑制的である」という徳を忘れ、このような不遜な言動をあえて行うことで、せっかくのその輝かしい功名と名誉を損なうことになるのではないかと深く憂慮するものである。

「韓国統監」とは何か

 この時期、日本は1905年の第二次日韓協約により、大韓帝国(朝鮮)を事実上の保護国として支配していました。その中心機関が「韓国統監府」で、初代統監には伊藤博文が任命されました(1906年設置)。統監は韓国の外交・行政を監督し、実質的に日本政府の代理として韓国を統治する立場にありました。

問題の核心:「兵力使用権」

 統監府の設置規定の中に、「統監は、必要と認めた場合には韓国駐留日本軍の司令官に対して兵力の使用を命ずることができる」という条項がありました。これに対して、現地の日本軍(韓国駐箚軍)や陸軍上層部が強く反発したのです。
 理由は次の通りです:

立場 主張
伊藤博文(文官・統監)側 軍隊を含めて韓国支配を一元的に指揮し、政治・外交・軍事の調和を図るべき
陸軍(特に山県・大山・参謀本部)側 軍の指揮権は文官である統監が干渉すべきではない。軍は軍令系統(天皇直属)であるべき

つまり、統監の軍指揮権をめぐる対立は、日本国内における文官(政府)と武官(軍部)の権限争いをそのまま朝鮮支配に持ち込んだものでした。

大谷参謀長の「帰朝」

 記事に登場する大谷参謀長とは、韓国駐箚軍参謀長の大谷喜久蔵中将のことです。彼は「統監が軍に命令するのは軍の独立性を侵す」として、不満を抱く陸軍側の立場を代表し、日本に帰国して陸軍元老(山県有朋・大山巌)に報告・相談するための「稟議帰朝」を行いました。
 この記事は、まさにその直後の報道であり、「軍が政治に口を出しすぎている」と萬朝報が痛烈に批判しているのです。

萬朝報の立場

 『萬朝報』は明治中期以降、政府や軍閥に対してしばしば批判的な論調を取っていました。特に、山県有朋を中心とする藩閥・軍閥政治への反発を強めていた新聞です。この記事でも、「軍人の不満は僭越(身の程知らず)であり妄言である」、「統監(=伊藤博文)の権限は当然」と明確に伊藤を支持し、軍部の政治干渉を非難しています。
 当時の萬朝報は「民政」や「政党政治」の立場に近く、官僚や軍部の専横に反対する姿勢を示していました。

歴史的意義

 この「兵力使用権問題」は、単に韓国統監府の行政制度の問題にとどまらず、日本の国家体制そのものを揺るがす重要な論点でした。
 この対立構造はその後も繰り返されます:

年代 対立の構図 結果
1906年 伊藤博文(統監) vs 陸軍(山県系) 軍の独立性を維持、統監の軍指揮権は実質制限
1912年 上原勇作(陸相)辞任 → 第一次憲政擁護運動 文民統制をめぐる第一次憲政擁護運動に発展
1930年代 統帥権干犯問題(ロンドン海軍条約) 軍部が政治を支配、政党政治崩壊

 つまり、この1906年の論争は、後の「統帥権独立」論争や軍部台頭の原型と見ることができます。

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