1906年01月10日 池上曙楼 明ぼの踊

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.24

(1906年1月10日、都新聞)
 柳橋の御守殿踊りをはじめ、赤坂の林家や春本(はるもと)などでも、「凱旋(がいせん)新曲」を作って披露しており、新年の各地の花街(かがい)はどこもたいへん賑やかで景気づいている。その中で、池上の梅園にある曙楼(あけぼのろう)でも、「明ぼの踊(あけぼのおどり)」という新しい踊りを考案して披露している。
 踊り手は、その楼(料亭)に勤める13歳から16歳くらいまでの女中たちで、衣装は小柄の市松模様を染め抜いたそろいの着物に、紅い襷(たすき)を交差して掛け、自分たちで謡(うた)いながら、手足の拍子をとって踊る。どこか昔風の趣があり、最近流行している「カッポレ(かっぽれ)」のような下品な踊りではなく、なかなか趣のあるものである。
 この踊りは、楼主(ろうしゅ/店主)の出身地である川越のあたりで、めでたい行事のときに踊られるものだという。そのため、楼主自らが指導して、女中たちに踊らせているそうだ。歌の節回しは「ヨー、オイトセ」という音頭で、ずっとこの調子で進んでいくものであるが、東京では珍しい踊りである。(以下略)

「都新聞」とは

 『都新聞』(現・東京新聞の前身の一つ)は、明治期の東京庶民向け娯楽・風俗新聞でした。花柳界(芸者町)、芝居、寄席、流行歌、料理屋の話題などを多く取り上げ、いわば「明治の週刊誌+夕刊紙」のような性格を持っていました。この記事もその典型で、池上の料亭で行われた新春の余興を取材した「風俗ニュース」です。

「池上の梅園・曙楼」とは

 池上(現在の東京都大田区池上)は、日蓮宗の大本山・池上本門寺の門前町として栄えた地域で、明治期には梅の名所としても知られていました。「梅園(ばいえん)」はその周辺にあった庭園・料亭地帯で、なかでも「曙楼(あけぼのろう)」は宴席・芸妓を呼ぶ料亭として評判がありました。
 この記事の「棲主(ろうしゅ)」とは、この曙楼の主人のことです。彼の出身地・川越(埼玉県)では、祝い事に踊られる郷土芸能があり、それを東京風にアレンジして正月の催しにしたのが「明ぼの踊」です。

「明ぼの踊」とは

 「明ぼの踊」は、店の名「曙楼(あけぼのろう)」にちなんだ創作踊り。
 記事によれば:
  • 郷土芸能(川越地方の祝い踊り)をもとにしている
  • 踊り手は若い女中(13〜16歳ほど)
  • 市松模様のそろい衣装+紅襷(赤いたすき)
  • 「ヨー、オイトセ」の掛け声(民謡調)
  • カッポレのような俗っぽさではなく、古風で上品
とあり、地方色と上品さを売りにした演目だったと分かります。
 「カッポレ(かっぽれ)」は当時東京で大流行した踊りで、俗謡調で滑稽な動きを特徴とし、庶民的ながら「下品」と評されることもありました。それと対比する形で、「明ぼの踊」は上品で古風な舞踊として紹介されています。

「凱旋新曲」と時代背景

 記事の冒頭に出てくる「凱旋新曲」とは、日露戦争(1904〜1905年)の勝利を祝う新作の歌や踊りのことです。当時、東京の花街(柳橋・赤坂・新橋など)では、「凱旋踊」「勝利節」「日露軍歌」など、戦勝ムードを題材にした演芸が数多く作られ、芸者や芸人が披露していました。
 つまりこの「明ぼの踊」も、そのような戦勝・祝賀ムードの中で考案された「新年の祝い踊り」だったのです。

文化的意義

 この種の記事は、明治期の「娯楽とナショナリズム」が交差した文化現象を映しています。
  • 戦勝気分(凱旋)による都市の祝賀ムード
  • 地方文化(川越の祝い踊り)の東京進出
  • 花街文化の商業化と創作性
  • 女性(女中・芸者)による舞踊パフォーマンスの普及

「明ぼの踊」は、地方色・上品さ・創作性を兼ね備えた“明治的モダン民俗芸能”の一例といえるでしょう。

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