1905年12月14日 野口男三郎の不敵ぶり

1905年

引用:新聞集成明治編年史 第十二卷 P.542

(明治38年12月14日 東京朝日新聞)
 臀(しり)の肉を切り取り、さらに寧斎(ねいさい)を殺害するという、残忍かつ極悪非道な犯行を働いた野口男三郎は、入監(投獄)後、自らも「もはや天罰を免れることはできまい」と悟っていたのか、日頃から傲慢な態度が多く見られたという。まるで「明治の極悪人は自分こそである」とでも言わんばかりの誇らしげな様子を見せ、予審判事の取り調べの際にも、しばしばそのような言動があったと伝えられている。まことに、度胸だけは並外れた、恐るべき不敵な男である。

1. 「野口男三郎事件」とは

 野口男三郎(のぐち・だんざぶろう)は、明治時代の末期に起きた残酷な殺人事件の犯人で、当時の新聞で大々的に報じられた「明治の大悪人」の一人です。事件は明治38年(1905年)に発生。野口は、かつての師である書家・寧斎(ねいさい)という人物を殺害し、その上、遺体の臀部(しり)の肉を切り取るという猟奇的な行為を行いました。犯行動機には金銭的な恨みや、個人的な怨恨があったとされますが、一方で、野口の性格的な異常や自己顕示欲の強さも指摘されています。

2. 当時の社会的反応

 この事件は、当時の日本社会に強い衝撃を与えました。
 理由は以下の3点です:
  1. 殺害方法の残酷さ(遺体損壊という異例の行為)
  2. 犯人の態度の異常さ(取り調べや監獄でも傲慢・不遜)
  3. 「明治の文明時代」にそぐわぬ野蛮な事件と受け止められたこと
 新聞各紙はこの事件を連日報道し、特に『東京朝日新聞』『萬朝報』『報知新聞』などは「近代日本における道徳の崩壊」「文明社会の裏面」としてセンセーショナルに取り上げました。この「不敵振(ふてきぶり)」の記事は、単に犯人の性格を伝えるだけでなく、文明化の進む明治社会における「悪」の象徴として野口を描き出したものです。

3. 「不敵」の語感と当時の報道姿勢

 記事タイトルの「不敵振(ふてきぶり)」とは、「恐れを知らず、厚かましい態度」を意味します。明治の報道は、犯罪報道を道徳的な警鐘として扱う傾向が強く、野口のような人物を「天罰を免れぬ悪人」「極悪人」と描くことで、読者に「道徳的教訓」を与える意図がありました。つまり、この記事は単なる犯罪記録ではなく、「文明国家・日本の道徳的危機」を論じる社会的寓話のような扱いでもあったのです。

4. 事件のその後

 野口男三郎は裁判で死刑判決を受け、その後刑が執行されました(明治39年頃と推定)。しかし死刑までの間も、彼は態度を改めることなく、獄中でも「俺こそ明治の極悪人」と豪語していたと伝えられています。こうした逸話が、新聞報道で「不敵なるしれ者(ふてきなしれもの)」と形容された理由です。

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