1905年11月27日 マッチ専売会社が設立へ

1905年

引用:新聞集成明治編年史 第十二卷 P.532

(11月27日・満州朝日新聞)
マッチ専売会社の設立
 関東および関西のマッチ業者たちからの建議(要望)を受けて、政府は今議会(第22回帝国議会)にマッチ専売法案を提出することを内々に決定した。このため、東西の主要なマッチ業者たちは手分けして、まず全国の製造業者の資産を調査し、少なくとも資本金500万円の一大会社を組織しようという運動を進めている。
 資産の評価については、マッチ工場1日1トンの生産を行うには平均25坪の敷地が必要とし、その価格を1坪あたり30円、すなわち工場1軒あたり約750円と見積もると、全国のマッチ製造所全体の資産額は約100万円に達する見込みである。この資産をもとに株式を割り当てて会社を設立し、一方では北海道の軸木(マッチ棒)製造所の改善や会社の新築費・その他の経費については、増資あるいは他の方法によってまかなう計画で、現在、関係者たちは熱心に準備・計画書の作成を進めているという。

 「燐寸専売」とは何か

 「燐寸(りんしん)」とは、今日のマッチ(matches)のことです。明治時代、日本ではマッチは主要な輸出産業の一つでしたが、国内でも製造業者が乱立し、価格競争と品質低下が深刻化していました。そのため、業界では以前から「マッチ製造・販売を統制して専売にすべき」という議論がありました。
 本記事は、政府がそれを受けて「燐寸専売法案」を今議会に提出する意向を固めたというニュースです。

なぜ「専売」が議論されたのか

 当時、専売制(国家独占・公的統制)は、明治国家の重要な財政政策でした。
 たとえば、
  • 1898年(明治31年):「煙草専売法」施行(国が専売)
  • 1904年(明治37年):「塩専売制」導入
  • 1905年(明治38年):戦費補填のため「樟脳専売法」可決
 こうした流れの中で、マッチ業界も「専売候補」として検討されたのです。記事が出た時点では、政府が直接専売にするのではなく、まず業者による民間統合(半公的専売会社)の形でまとめようとしていました。つまりこの「燐寸専売会社」は、国家専売への移行を前提とした準備段階の組織だったのです。

「500万円会社」の意味

 当時の500万円という金額は非常に巨額で、中小マッチ業者を全国的に束ねた大資本会社(財閥系の支援を得る形)が構想されていました。文中の計算によると:
  • 全国の工場の地価・設備などの合計:約100万円
  • これを株式化して資本に組み入れる
  • さらに新設備投資・北海道での軸木(マッチ棒原料)工場整備費などを増資で補う
  • 合計して総資本金500万円規模の会社をつくる計画
 この「北海道の軸木」とは、マッチ棒の素材であるポプラやアスペン(ヤマナラシ)などの白木を指し、寒冷地の良質材を確保する狙いがありました。

当時のマッチ産業の状況

 明治末期の日本は、世界有数のマッチ輸出国であり、特に大阪・兵庫(関西)と東京・横浜(関東)が生産の中心でした。
  • 明治30年代:日本のマッチ輸出は年間1億箱を超える
  • 主な輸出先:東南アジア、中国、インド、ロシア極東など
 しかし、製造業者が乱立して価格競争が激化し、さらに輸出国では品質への苦情が増加。これを受け、業界団体や政府内で「専売会社による統一管理」の声が高まったのです。

その後の展開

 政府は最終的に「マッチ専売法」を国会に提出しましたが、強い反対(民業圧迫・自由貿易の妨げなど)を受けて法案は成立しませんでした。一方で、業界側の努力によって1908年(明治41年)ごろまでに、大阪や兵庫を中心に共同組織・協同販売組合が形成され、これが後に「日本燐寸株式会社」などの大合同企業につながっていきます。
 最終的に、国家による完全な専売(たとえば煙草のような形)は実現しませんでしたが、この1905年の記事は、その専売化構想の出発点を示す重要な記録です。

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