(1908(明治41)年3月5日、『日本平民新聞』)
社会主義のために悲しむべき出来事が起こった。今朝、東京の同志・藤田四郎氏から、16日夜に社会主義同志会員18名余りが西川光次郎氏方に集まり、全会一致で左の決議をしたとの飛信があった。
決議
同志・片山潜氏の性格・精神・行動には、社会主義者としてあるまじき点が少なくない。
しかも将来、わが党の運動に多大な妨害を及ぼすものであると認めるため、ここに同氏を社会主義同志会から除名することを決議する。
四十一年二月十六日
社会主義同志会員十五名
なお、『社会新聞』は休刊することになったという。予はこれを読んで、一度は事の意外さに驚いた。しかし、再びこれを思うと、大勢のついに行き着くべきところに到達したのだと感じ、三度これを熟慮するに及んでは、実に深く日本社会運動のために悲しまずにはいられない。
そもそも片山氏は、日本において最も早く社会主義を唱道した人物であり、万国社会党大会における日本の代表者として、世界の同志にその名を知られた人物である。そして昨年以来、『社会新聞』を創刊し、同志会を起こし、その経営・運動に力を尽くしてきたことは、誰もが知っている。
ところが今、たちまち自ら起こした同志会の諸君のために弾劾され、排斥されるという意外な事態となったのである。予は以前から、氏が最近の思想・行動について、多く知るところがなく、また氏と西川氏との関係がどのようになっているのかも知らない。
したがって、同志会の諸君が一人の異議もなく、この処分を断行したことを見れば、そのことにはよほどの理由があるのであろうとは思う。しかし、これは驚くべき出来事である。
写真・図引用:
◾️掲載時期は1908(明治41)年2月18日
記事本文には「四十一年二月十六日」とあり、その2日前に社会主義同志会が片山潜の除名を決議したことが分かります。
学術研究でも、1908年2月16日に西川光次郎らが片山潜を社会主義同志会から除名したことが確認できます。したがって、今回の記事は1908(明治41)年2月18日のものとみてよいでしょう。
◾️社会主義同志会とは
背景には、前年の日本社会党の分裂があります。
1907(明治40)年2月の日本社会党第2回大会では、幸徳秋水らの直接行動論と、片山潜・田添鉄二らの議会政策論が激しく対立しました。政府は大会後の2月22日、日本社会党に結社禁止を命じています。
その後、片山潜・西川光次郎・田添鉄二ら議会政策派は同年8月に「社会主義同志会」を組織しました。法政大学大原社会問題研究所によれば、発会時には約30人の会員がおり、社会主義研究会や演説会を行うことを規約に掲げていました。
◾️なぜ片山潜は除名されたのか
ここがこの記事の重要な点です。
除名決議そのものは、片山の「性格精神行動」に「社会主義者として有るまじき点」があり、将来の運動を妨害すると述べるだけで、具体的な行為を明示していません。
後世の研究では、この分裂について、片山の議会主義的な立場と西川光次郎・赤羽一らとの理論的対立に加え、片山の性格をめぐる感情的対立も絡んでいたとされています。
したがって、この記事だけから「片山が何か重大な不祥事を起こして除名された」と理解するのは適切ではありません。思想・運動方針・人間関係が重なった内部対立だったと考える方が史料に即しています。
◾️社会主義運動がさらに細分化していく時期
興味深いのは、片山潜が除名された相手も、もともとは片山と同じ「議会政策派」だったことです。
前年には大きく、
幸徳秋水ら直接行動派 ↔ 片山潜・田添鉄二・西川光次郎ら議会政策派
という対立でした。
ところが1908年になると、その議会政策派の内部まで分裂し、片山・田添側と西川側に分かれていきました。研究史でも、片山除名はこの分裂を示す事件として位置づけられています。
◾️ まとめ
この記事は、1908(明治41)年2月16日、社会主義同志会が片山潜を除名した事件を速報したものです。
わずか前年、日本社会党は幸徳秋水らの直接行動派と片山潜らの議会政策派に分裂し、政府から結社禁止を受けていました。その後、片山・西川・田添らが社会主義同志会を作りましたが、今度はその内部で片山自身が排斥される事態となりました。
特に記事の筆者が、片山を「日本において最も早く社会主義を唱道した人物」「万国社会党大会における日本代表」と高く位置づけながら、その片山が自ら組織した同志会から除名されたことに強い衝撃を示している点が印象的です。
この記事は、政府による弾圧だけでなく、直接行動か議会政策かという路線対立、さらに議会政策派内部の対立によって、明治末期の社会主義運動が急速に分裂していった過程を伝える同時代史料といえます。

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