1908年03月04日 内務と文部の腕合い 問題の陰暦の存廃

1908年

(1908年3月4日、『報知新聞』)
 太陽暦は強制的に用いさせるべきであり、太陰暦は絶対に廃止すべきであるとして、愛媛県選出の前代議士・今西幹一郎氏が、明日、帝国議会に建議案を提出する予定である。
 もともと今西氏は非常に熱心な人物で、陰陽暦を併用することは、風教上・経済上ともに不利益であるだけでなく、明治5年の詔勅によって改暦のことが公布され、その詔勅の中で、太陰暦の短所を指摘して、「とりわけ中段・下段に掲げるようなものは、おおむね根拠のない迷信であり、人々の知識の発達を妨げるものも少なくない」と述べているにもかかわらず、明治の改暦からすでに長い年月が経過した今日に至っても、なお太陰暦を用いることは、詔勅の大罪を犯すものであると憤慨している。そこで前後5回にわたって建議を提出したものの、毎回、議会で取り上げられず、ついにその志を達することができなかった。
 しかし本年は、ぜひとも宿願を果たそうとして、関係官公署にも賛否を求めた。暦とはもともと関係の深い文部省では、天文学者の寺尾寿氏に諮問した結果、今西氏の説に賛成し、太陽暦の専用を励行すべきであるとの方針となった。
 さらに内務省にも意見を求めたところ、改暦の詔勅がある以上、多少経済上の不利益があったとしても、太陰暦を全面的に廃止することには賛成せざるを得ないとのことから、今西氏も勢いづき、太陰暦を廃止する理由を内務省で広く調べてもらうことになった。
 ところが、調査を進めるうちに何らかの事情が生じたらしく、結局、数年前に神宮司庁から頒布した略本暦は約80万部が作られ、その利益が5万円以上に達しており、神宮司庁はこの収入によって経費の大半をまかなっていることが分かった。
 もし略本暦が売れなくなれば、神宮司庁を支える内務省にも大きな打撃となる。もちろん、現在の略本暦にある「九星早見」などの類は、「日用重宝記」などの名のもとに密かに販売されているものもある。実質的に考えれば、太陰暦を完全に廃止したところで略本暦の売れ行きに影響を与えるべきものではないようにも思われる。
 しかし、もともと暦を偽造して販売するほどの連中であるから、もし少しでも隙があれば、それにつけ込んで必ず一年のうちに3、4か所で故意に日付をずらし、それによって役所から尋問を受けた際の言い逃れにすることが常套手段となっている。したがって、わが国では略本暦以外に真正な暦がなく、略本暦も陰暦と陽暦を併記することによって生命を保っている以上、その中から太陰暦に関する部分を取り除けば、暦の売れ行きに大きな影響を及ぼし、5万円の利益が2、3万円程度に減少するかもしれない。
 そう考えたためか、内務省も厄介を避けるために、今西氏の主張に反対するようになったという。しかし今西氏は、ぜひとも議会で問題とし、法律の力を借りてでも太陰暦の全面廃止を実現するつもりで、現在、奔走しているという。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/220

写真・図引用:https://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter1/s2.html?utm_source=chatgpt.com

◾️「太陰暦」と書かれているが、正確には「太陰太陽暦」

記事では一貫して「太陰暦」と呼んでいますが、明治5年まで日本で使われていた天保暦は、厳密には太陰太陽暦です。月の満ち欠けを月の基準としながら、閏月を入れて季節と太陽年とのずれを調整する暦でした。

明治政府は1872(明治5)年11月9日、太政官布告第337号によって従来の暦を廃し、太陽暦を採用しました。そして旧暦の明治5年12月3日を、1873(明治6)年1月1日としました。

◾️記事が引用する「妄誕無稽」の意味

記事中の、
 「殊ニ中下段ニ掲クル所ノ如キハ率ネ妄誕無稽ニ属シ、人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス」
は、実際に1872年の改暦詔書にある文言です。

ここで問題視された「中下段」とは、暦に掲載されていた日の吉凶・方角などの暦注を指します。政府は単に西洋式のカレンダーへ変更しただけでなく、旧来の暦に付随した迷信的な暦注を排除することも、改暦の目的として掲げていました。

◾️それでも旧暦は簡単には消えなかった

制度上は1873年から太陽暦になりましたが、旧暦は農村・漁村、祭礼、年中行事など日常生活の中に強く残りました。

実際、国立天文台の解説によれば、急激な変更による不便を考慮して旧暦(天保暦)の情報も暦に併記され、その併記は明治42年暦まで続きました。

したがってこの記事は、「1873年に旧暦は廃止された」という法制度上の話と、「その後も人々が旧暦を使い続けた」という社会生活上の実態とのずれを扱った記事と読むことができます。

◾️今西幹一郎とは

今西幹一郎(1846~1927)は愛媛県出身の政治家・実業家で、愛媛県会議員を経て、1896(明治29)年から1897(明治30)年まで衆議院議員を務めました。後には好藤村長となり、宇和島鉄道など地域の事業にも関係しています。愛媛県歴史文化博物館の研究資料でも、1846~1927年、県会議員・衆議院議員・好藤村長などの経歴が確認できます。

◾️興味深い「理念対財政」の対立

この記事で特に面白いのは、単純な「新暦対旧暦」の論争ではない点です。

記事の描く構図では、文部省側は太陽暦専用を支持する一方、内務省側は神宮司庁が略本暦の販売収入を得ているという現実的事情から、全面廃止に消極的になったとされています。

ただし、これはあくまで『報知新聞』が伝えた経緯であり、内務省が実際にこの財政的理由から反対方針を決定したことまで、今回確認した公的資料だけでは裏付けられません。この部分は記事の報道内容として読むのが適切です。

◾️ まとめ

この記事は、明治政府が1873年に太陽暦を正式採用してから長い年月が経過しても、旧暦が社会から消えなかったことを示す興味深い史料です。

今西幹一郎は、明治5年の改暦詔書を文字通り徹底し、太陽暦だけを使用すべきだと主張しました。これに対し、記事によれば文部省は賛成したものの、内務省は神宮司庁が販売する略本暦の収益への影響などから消極姿勢に転じたとされています。

つまり改暦は、1873年1月1日の制度変更だけで完結したのではありません。国家が定めた「新暦」と、人々の日常生活に残り続けた「旧暦」とのせめぎ合いは、その後も長く続いたことが、この記事からよく分かります。

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