1907年07月31日 富士山頂への電話が開通 ― 登山道も五合目まで立派に完成 ―

1907年

(1907〈明治40〉年7月31日『報知新聞』)
 山梨県と地元関係者が進めてきた吉田口登山道の整備計画が、いよいよ完成しました。山梨県知事の武田知事が現地に出席し、8月1日午後5時に富士山八合目で、山頂へ通じる電話の開通を祝う式典が行われる予定です。
 また、山小屋兼ホテルの開業式は、準備の都合により8月2日または3日に延期される見込みです。さらに、五合目までの登山道は非常によく整備されました。
 吉田浅間神社の裏から五合目までは荷馬(駄馬)で約2時間30分で到着でき、そこから八合目までは25町(約2.7km)、八合目から山頂までは約7町(約760m)あります(現在測量中)。五合目から山頂までの全行程約32町(約3.5km)は、女性が歩く速度を基準にしても、1町につき約10分として計算すれば、およそ6時間弱で登頂できるとされています。
 なお、吉田浅間神社裏を起点として測量した各地点までの距離は次のとおりです。
  <起点>  <距離>
  中ノ茶屋  約1里2町46間
  馬返し   約2里59間
  一合目   約2里5町18間
  二合目   約2里17町19間
  三合目   約2里24町51間
  四合目   約2里33町34間
  五合目   約3里6町8間(約12km)

 開通式は質素に行われ、特に招待状は送られませんが、当日参加した人には登山記念メダルが贈られる予定です。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/171

写真・図引用:https://www.lavafuji.com/items/573671#group

⚫︎ 富士山に電話が通じた時代

この記事で最も注目されるのは、富士山頂まで電話が開通したというニュースです。

当時、電話はまだ都市部でも十分に普及していない新しい通信技術でした。その電話線を富士山の山頂まで敷設したことは、明治日本の技術力とインフラ整備を象徴する出来事でした。

電話の設置目的には、

  • 遭難や急病への対応
  • 気象情報の連絡
  • 登山者や宿泊施設との通信
  • 山頂観測所との連絡

などがあり、観光だけでなく安全確保や学術観測にも役立てられました。

⚫︎ 吉田口登山道の近代化

富士山吉田口登山道は江戸時代から富士講の信者が利用してきた伝統的な登山道です。

明治時代になると、

  • 道路整備
  • 山小屋建設
  • 宿泊施設(ホテル)
  • 電話線敷設

などが進み、信仰の山であった富士山は近代的な観光地へと変化していきました。

この記事は、その転換期を伝える貴重な記録です。

⚫︎ 富士山頂測候所との関係

この記事の時点では本格的な山頂測候施設は整備途上でしたが、その後、富士山頂には観測施設が設けられ、気象観測の重要拠点となりました。

山頂への電話回線は、こうした観測業務にも大きく貢献し、日本の近代気象学の発展を支えるインフラとなりました。

⚫︎ 「ホテル」とは何か

記事にある「ホテル」は、現在のリゾートホテルという意味ではなく、登山者向けの宿泊施設・山小屋を近代的に整備した施設を指します。

明治後期には外国人旅行者や国内観光客も増加しており、富士山は信仰だけでなく観光・保養の目的地としても人気を集めるようになっていました。

⚫︎ まとめ

この記事のポイントは次のとおりです。

  • 山梨県と地元関係者により、吉田口登山道の整備が完成した。
  • 富士山八合目で山頂への電話開通式が開催される予定となった。
  • 五合目までの登山道は馬でも通行できるほど整備された。
  • 山小屋兼ホテルの開業も予定され、富士山の観光インフラが大きく向上した。
  • 電話や道路整備は、安全確保・観光振興・気象観測など、多面的な近代化を象徴する出来事であった。

この記事は、富士山が「信仰の山」から「近代的な観光・学術・通信の拠点」へと変化していく過程を伝える、明治期の貴重な史料です。

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