(1907〈明治40〉年7月27日『東京朝日新聞』、7月25日発)
新しい日韓協約が、これまでになく非常に簡単かつ迅速に裁可(皇帝の承認)されたのは、日本軍の厳重な配置と警察隊の行動が宮中に大きな衝撃と恐怖を与えたことが、その一因であることは間違いない。さらに、7月24日夜、韓国の総理大臣らが上皇(退位した高宗)に拝謁した際、「もし陛下が日本の要求に異議を唱えたり、承認をためらったりすれば、日本がどのような行動を取るか予測できません。このような状況では、速やかに受け入れる以外に方法はありません」と総理大臣が申し上げた。これを聞いた上皇も、もはや自分の意思を押し通すことはできないと判断し、わずか40分間の拝謁で新協約を裁可することになった。
写真・図引用:https://en.wikipedia.org/wiki/Gojong_of_Korea?utm_source=chatgpt.com
⚫︎ 第二次日韓協約ではなく「第三次日韓協約」
この記事でいう「新協約」は、1907年7月24日に締結された第三次日韓協約(一般に丁未七条約とも呼ばれる)を指します。
この協約によって、日本の韓国統監府の権限は大幅に強化されました。
主な内容は、
- 韓国政府の各省に日本人の「次官(政務監督)」を配置すること
- 韓国政府の重要な行政は日本統監の監督下で行うこと
- 日本が韓国の内政改革を指導すること
などで、韓国政府の行政権は事実上、日本の統制下に置かれることになりました。
⚫︎ 高宗退位直後の緊張
高宗は、ハーグ密使事件によって日本との対立を深めた結果、1907年7月に退位を余儀なくされました。
皇位は皇太子の純宗へ譲られましたが、高宗は「上皇」として宮中に残っていました。
記事では「上皇」とあるのは、この退位後の高宗を指しています。
⚫︎ 日本軍と警察の展開
記事では「軍隊配置の厳密」「警察隊の行動」が協約成立の決め手だったと述べています。
実際、この時期には
- 京城市内への日本軍配置
- 皇宮周辺の警備強化
- 日本憲兵・警察による治安維持
が行われていました。
⚫︎ まとめ
この記事のポイントは次のとおりです。
- 1907年7月に第三次日韓協約が短期間で成立した経緯を伝えている。
- 日本軍・警察の厳重な展開が、韓国皇室に大きな心理的圧力を与えたと報じている。
- 総理大臣らが高宗に対し、日本の要求を受け入れるよう進言したとしている。
- 当時の日本の新聞は、この迅速な協約成立を日本の強い外交姿勢の成果として描いている。
この記事は、1907年の第三次日韓協約成立をめぐる日本側の認識や報道姿勢を知るうえで重要な一次資料です。


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