(1907年2月16日『東京朝日新聞』長崎)
長崎の三菱造船所では、創立以来およそ9,000人の職工が働いている。そのうち長崎市内に住む4,000~5,000人ほどの通勤者については、これまで10隻余りの曳船(えいせん)を使って毎日送迎していた。
しかし港内が狭いうえ、曳船の数も増えて危険になってきたため、新しい道路橋が完成したのを機に、今月15日をもって通勤用の船による送迎をすべて廃止することになった。その代わりとして、工場の近くへ移転する準備のため、向こう1年間に限り1日5銭の手当を支給する制度に変更した。
ところが、陸路で遠回りして通勤するのは不便であるとして、4,000人以上の職工たちが各地で密かに集まり、騒然とした不穏な空気が広がった。昨日から各警察署では警戒を続けており、中には「役員だけを送迎する曳船を壊してしまえ」といった過激な意見を口にする者もいた。一方、三菱造船所側は陸路通勤への変更を主張しており、事態は容易に収まりそうにないとみられ、職工の気勢はますます不穏であるという。
また造船所に対して忠告を試みる者もあり、県知事からも造船所へ注意がなされた。その結果、昨夜になって三菱側は従来どおり曳船での送迎を続けることを決定し、ひとまず事態は収まった。
しかし、分別のある職工たちの間では、今後さらに何らかの要求を実現しようとする動きがあるようにも見える。
写真・図引用:https://www.jasnaoe.or.jp/old_sites/west/mm/016/article01.html?utm_source=chatgpt.com
◾️ 三菱長崎造船所と明治日本の重工業
この記事の舞台は、現在の三菱長崎造船所です。
この造船所は、もともと幕末に作られた長崎製鉄所を前身とし、1884年に岩崎弥太郎の三菱に払い下げられ、日本最大級の造船工場へ発展しました。
日清戦争(1894–95)や日露戦争を経て、日本では軍艦・商船の建造需要が急増し、長崎造船所は日本の重工業の中心の一つとなりました。
その結果、1907年頃には約9,000人という巨大な労働者集団を抱える大工場になっていました。
◾️ 通勤船という「工場交通」
造船所は長崎港の対岸にあり、市街地から通勤するには海を渡る必要がありました。
そのため三菱は
- 曳船(通勤船)で労働者を送迎
- 数千人を船で通勤させる
という、当時としては非常に珍しい 企業による大量輸送システム を作っていました。
しかし
- 港が狭く事故の危険
- 船の数増加
- 陸橋・道路整備
などの理由で廃止を試みたのが今回の騒動です。
◾️ 明治期の労働問題
この事件は、日本で労働問題が顕在化し始めた時代を示す事例です。
明治後期には
- 工場労働者の増加
- 労働条件への不満
- 労働者の集団行動
が各地で起こり始めました。
同時期には
- 日本労働総同盟(1912創設)以前の
- 自然発生的なストライキや抗議
が多く見られました。
この記事の出来事も、ストライキ寸前の労働争議といえるものです。
◾️ まとめ
① 日本最大級の工場の労働問題
三菱長崎造船所のような巨大工場では、労働者の集団行動が社会問題になり始めていた。
② 通勤制度という労働条件の重要性
賃金だけでなく、通勤・福利厚生なども労働者の重要な関心事であった。
③ 明治後期の労働運動の萌芽
この事件は、後の労働組合運動や大規模ストライキにつながる社会変化の一端を示している。
結果として三菱は 方針を撤回し通勤船を継続しましたが、記事が示すように、労働者側の不満は完全には解消されていませんでした。

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