(1908(明治41)年3月10日、東京朝日新聞)
8日午後6時半、新潟市古町通八番町の待合店「若狭屋」から出火し、古町通七・八・九番町、本町通六・七・八・九番町、東堀通七・八・九・十番町、上大川前通五・六・七・八・九番町、礎町通一・二・三番町、下大川前通五・六・七番町および月町、花町、住吉町、西堀通八番町へと延焼し、焼失戸数は全部で千五百余戸に達し、9日朝に鎮火した。
焼失した主な建物には、貯蓄銀行、六十九銀行支店、池山病院、若月病院などがある。また、新潟第一の萬代橋も焼失したため通行が途絶え、新潟駅と新潟市街との往復には信濃川の渡船を使用している。罹災後の光景は言葉では言い表せないほどで、損害は約六百万円にのぼるという。
◾️1908(明治41)年3月8日の「新潟大火」
この記事が報じているのは、1908(明治41)年3月8日に新潟市中心部で発生した大火です。
新潟市の公式年表でも、1908年には3月と9月の2度、大規模な火災が発生したことが記録されています。特に3月の大火では、初代萬代橋まで焼失しました。
◾️出火元の「若狭屋」
記事では、古町通八番町の「待合店若狭屋」から出火したとしています。
現在の資料では、この火災はしばしば「若狭屋火事」とも呼ばれています。古町は当時から新潟市を代表する繁華街・花街で、木造建築が密集していました。
新潟市の歴史資料では、3月8日午後6時ごろに出火し、強風にあおられて古町から東堀、本町通、上大川前通など市街中心部へ拡大したことが確認できます。
新聞記事に町名が細かく列挙されているのは、この火災が単なる一街区の火事ではなく、新潟の中心市街地を横断する規模で広がったことを伝えるためでしょう。
◾️新聞の「千五百余戸」と、後世の「1,198戸」
興味深いのは焼失戸数です。この記事は速報段階で、「焼失戸数総て千五百余戸」と報じています。
ところが、新潟市の後世の公式資料では、3月8日の大火による焼失戸数は1,198戸とされています。
つまり、この記事の「1,500余戸」は、火災直後に伝えられた暫定的な被害推計だった可能性が高いと考えられます。
大規模災害直後には、焼失区域全体の調査が終わる前に概算数字が新聞へ送られるため、後日の公式集計と差が出ることがあります。この記事は、まさにその速報性を示す史料として読むことができます。
◾️初代「萬代橋」も焼失
この大火で特に重大だったのが、初代萬代橋の焼失です。
初代萬代橋は1886(明治19)年に完成した木橋で、当時の広い信濃川を横断する、長さ約782メートルもの大橋でした。もともとは民間が建設した有料橋でしたが、1900(明治33)年には新潟県が買収し、無料化されていました。
1908年3月8日の火災では、市街地から燃え広がった火によって橋の半分以上が焼失しました。国土交通省も、この大火により初代萬代橋が半分以上焼け落ちたことを記録しています。
新聞が、「新潟一の萬代橋も焼失したるため通行を杜絶され」と強調しているのは、この橋が単なる名所ではなく、新潟市街と新潟駅側を結ぶ交通上の生命線だったからです。
◾️「渡船」が復活した
記事中でも特に興味深いのが、「新潟駅、新潟市間の往復は信濃川の渡船を使用し」という部分です。
萬代橋ができる以前、信濃川を渡る主要な手段は船でした。
ところが1886年に萬代橋が完成して以後、橋による陸上交通が定着します。それが1908年の火災によって突然遮断され、一時的に再び渡船に頼らざるを得なくなったわけです。
当時の絵葉書にも、焼け落ちた萬代橋と多数の渡船を写したものが残っています。新潟市歴史博物館所蔵資料には、「万代橋焼落て知る此不便 二十世紀の乗合船」と記された絵葉書もあります。
萬代橋が失われて初めて、人々が橋の重要性を痛感したことがよく分かります。
◾️新潟駅と市街地は、現在とはかなり違う位置関係だった
当時の新潟駅は1904(明治37)年に開業したばかりでした。
そのため、この記事でいう「新潟駅」と「新潟市」との往復とは、現在の感覚でいう単なる市内移動ではありません。信濃川を隔てて、旧来の新潟市街と、新しくできた鉄道駅側とを結ぶ交通という意味合いが強いものでした。
新潟駅開業後、萬代橋の通行量は急増していました。国土交通省の資料によれば、1905(明治38)年には新潟駅の乗降客数が約24万人に達しており、萬代橋は鉄道と市街地をつなぐ重要な経路になっていました。
したがって萬代橋の焼失は、市街地の火災被害だけでなく、新潟の鉄道交通そのものにも大きな支障を生じさせたことになります。
◾️「言語に絶し」という災害報道
記事末尾の、「罹災後の光景言語に絶し」は、現代語なら「被災後の光景は言葉では表現できないほどである」という意味です。
火災直後の絵葉書が数多く作られていることも、この災害が当時の市民に極めて強烈な印象を与えたことを示しています。
新潟市歴史資料だよりによれば、3月の大火を写した絵葉書だけでも複数のシリーズが制作されており、炎上中の市街地、焼失後の萬代橋、渡船の混雑などが記録されています。
◾️同じ年の9月にも、さらに大きな火災が起きた
1908(明治41)年の新潟にとって不幸だったのは、これで終わらなかったことです。
わずか半年後の9月4日にも再び大火が発生しました。
新潟市の資料では、
- 3月8日の大火:1,198戸焼失
- 9月4日の大火:2,076戸焼失
とされています。
そのため1908年は、新潟市史上でも特に大きな火災被害を受けた年となりました。
この記事は、その最初の3月大火を発生からわずか2日後の時点で伝えた速報記事という点でも貴重です。
◾️ まとめ
1908(明治41)年3月8日、新潟市古町通八番町の「若狭屋」から出た火は、市中心部へ急速に広がりました。
『東京朝日新聞』は2日後の3月10日、焼失戸数を「千五百余戸」と速報し、銀行、病院など多数の建物が焼け、新潟を代表する初代萬代橋まで焼失したと伝えています。
後世の新潟市の正式な記録では、実際の焼失戸数は1,198戸とされていますので、新聞の1,500戸余という数字は災害直後の暫定集計だったと考えるのが自然です。
とりわけ重要なのは萬代橋の焼失です。当時の萬代橋は、新潟旧市街と1904年に開業した新潟駅側を結ぶ交通の大動脈でした。そのため橋が失われると、人々は再び信濃川の渡船を利用せざるを得なくなりました。
つまりこの記事は、単なる「大火の記事」ではありません。
近代化によって鉄道・橋・銀行・病院など都市機能を整えつつあった明治末期の新潟が、一夜の火災によってその交通・金融・医療基盤まで大きな打撃を受けた様子を伝える記事でもあります。
そして、焼失した初代萬代橋は翌1909(明治42)年、二代目萬代橋として再建されることになります。

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