(1907年1月1日・北海タイムス)
日本における牧羊は、明治5~6年ごろに始まった。内地(本州などの府県)での牧羊は、大久保利通内務卿の熱心な奨励によるものであり、北海道における牧羊奨励も同じころに始まり、黒田清隆開拓使長官の後押しによるものであった。
北海道での羊の輸入は、明治7年5月、アメリカ産の「ウースター種」雌35頭・雄12頭を七飯に移したのが始まりであり、そのうち雌7頭・雄1頭が札幌に移されたという。以後、輸入を続けただけでなく、明治9~10年には根室に移して繁殖を試みた。
また、北海道における牧羊事業として、明治8年に亀田郡桔梗野村に桔梗野牧場を設立し、翌9年には札幌牧羊場を設けて、種羊の繁殖を図ることになった。さらにアメリカからメリノ種、コッツウォルド種、リンカーン種などを輸入し、同時に清国産の雌羊を導入して頭数の増加を目指した。
しかし残念ながら、いずれの牧場でも死亡する羊が多く、清国種はとくに成績が悪かった。当時は内地の府県でも同様の不振に陥っていたため、北海道の牧羊方法だけを一方的に非難すべきではないが、当時はまだ獣医学の知識が未発達であったため、寄生虫の被害を受ける例が大部分であった。
そのほか、疥癬(スケープ)と呼ばれる皮膚病や、フットロット病なども発生していた。とはいえ、今から約60年前のイギリスの牧羊も、これらの病気のために大きな困難を経験していた事実を考えれば、北海道で多数の羊が死んだのも無理からぬことである。
しかし、こうした事実によって北海道牧羊の悲観論が抜きがたいほど強固なものとなってしまっているのは、まことに残念なことである。
(後略)
写真・図引用:https://www.hkd.mlit.go.jp/sp/kasen_keikaku/e9fjd60000000bwe.html?utm_source=chatgpt.com
◾️ 明治政府と「牧羊」政策
明治政府は、
- 羊毛(軍服・毛織物)
- 肉・脂肪
の確保を目的に、欧米型畜産の導入を国家政策として進めました。とくに寒冷地である北海道は、イギリスや北米型農業の実験場として期待されていました。
その中心人物が、内地では大久保利通、北海道では黒田清隆です。
◾️ 北海道牧羊が直面した現実
記事が率直に語っている最大の問題は、
- 大量死
- 病気(寄生虫・皮膚病・蹄病)
でした。
当時は、
- 近代獣医学が未成熟
- 消毒・隔離・予防の概念が弱い
- 海外からの輸入羊が日本の風土に適応できない
といった条件が重なり、理想と現実の落差が極めて大きかったのです。
◾️ 「失敗」から生まれた悲観論
北海道では、
- 国費を投じたにもかかわらず成果が出ない
- 内地でも同様の失敗が続く
という状況から、「日本では牧羊は根付かない」という見方が広がりました。この記事は、その悲観論が固定化していくことへの危機感をにじませています。
◾️ それでも消えなかった可能性
興味深いのは、筆者が「イギリスも60年前は同じ困難に直面していた」と述べ、北海道牧羊の失敗を一時的段階として捉えようとしている点です。
これは、
- 技術と知識が進歩すれば可能性はある
- 短期的失敗で断念すべきではない
という、近代化思想そのものを反映しています。
◾️ まとめ
この新聞記事は、
- 明治政府の欧米模倣型開発政策
- 北海道が「国家実験場」であった現実
- 失敗をどう総括し、将来に繋げるかという知識人の悩み
を非常によく示しています。
結果的に、日本の牧羊は主流産業にはなりませんでしたが、
- 獣医学
- 畜産衛生
- 北海道農業の基盤整備
といった分野には、確実に経験が蓄積されていきました。


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