1906年06月07日 白燐使用禁止 ベルリン会議に日英反対

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.102

(1906年6月7日・東京朝日新聞)
 マッチの製造において白燐の使用を禁止することを決議した、ドイツ・ベルリンでの国際会議の決定に対し、日本とイギリスの両国はこれに反対し、この決議には参加しない旨の通牒を発した。
 この使用禁止の趣旨は、白燐中毒との関係から、これを扱う工場労働者の衛生を保護する点にあるものと思われる。しかし、もともと日本国内のマッチ製造工場は、いずれも空気の流通がよく、欧米諸国のように工場を密閉しているわけではないため、労働者が白燐中毒に侵されるようなことはない。
 さらに、日本のマッチの海外輸出額は年一千万円に達しており、そのうち白燐を含む製品が三〜四割を占めている。もしこの禁止決議に従えば、三百万から四百万円もの損失を被ることになるため、日本はこの決議に加わらないことを決定したのである。

◾️ 白燐とマッチ産業

 白燐(しろりん)は、
  ・着火しやすい
  ・製造コストが安い
という理由から、19世紀以来マッチの原料として広く使われていました。

 しかし一方で、
  ・燐毒(白燐中毒)
  ・顎骨壊死(いわゆる「燐顎」)
といった深刻な職業病を引き起こすことが、欧米で社会問題化していました。

◾️ ベルリン会議(1906年)

 1906年、ドイツ・ベルリンで、白燐マッチの製造・販売を国際的に禁止することを目的とした国際会議(後の「ベルリン条約」)が開かれました。

  ・労働者保護
  ・公衆衛生の向上
を掲げた、当時としては先進的な国際的社会政策でした。

◾️ 日英が反対した理由

 記事が述べている通り、日本とイギリスは、
  ・白燐マッチ産業が重要な輸出産業
  ・代替品(赤燐マッチ)の普及が不十分
  ・禁止すれば大きな経済的損失が出る
という理由から反対しました。

 特に日本では、
  ・マッチ産業は中小工場が多く
  ・アジア市場向け輸出で大きな比重を占めていた
ため、国家として容易に受け入れられませんでした。

◾️ 「日本は安全」という主張の背景

 記事では、日本の工場は換気がよく、燐毒は起きていないと述べられていますが、これは公式見解であり、実際には
  ・日本でも燐毒被害は存在した
  ・ただし欧米ほど社会問題化していなかった
と考えられています。

 当時の日本は、
  ・労働者保護よりも
  ・輸出競争力の維持
を優先する段階にありました。

◾️ 国際社会政策と経済競争の衝突

 この問題は、
  ・国際的な労働・衛生基準
  ・各国の産業保護・経済利益
が正面から衝突した事例です。

 日本とイギリスは当初不参加でしたが、
  ・技術進歩
  ・世論の変化
  ・国際圧力
を受け、最終的には白燐マッチは禁止されていくことになります(日本では1921年に製造禁止)。

◾️ 総括

 この記事は、
  ・近代日本が国際的社会政策にどう向き合ったか
  ・労働者保護と輸出産業の板挟み
  ・「文明国」としての振る舞いを模索する姿
をよく示しています。

 白燐禁止問題は、経済成長期の日本が直面した「国際規範への適応」という課題を象徴する出来事でした。

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