(12月1日・東京朝日新聞)
日露戦争中に施行された、戒厳令の実施および新聞取締に関する忌まわしい緊急勅令が、一昨日(11月29日)午後に発行された官報号外によって、ついに撤廃された。
以下は、その官報に掲載された勅令の内容である。
勅令文
朕(ちん:天皇)は、ここに緊急の必要があると認め、枢密顧問の諮問(しもん:意見聴取)を経て、大日本帝国憲法第八条に基づき、明治三十八年勅令第二百五号および同年勅令第二百六号を廃止する件を裁可し、これを公布する。
御名御璽(ぎょめいぎょじ)
明治38年11月29日
各大臣副署(閣僚連署)
勅令第二百四十二号
明治38年勅令第205号および同年第206号は、本令の公布の日よりこれを廃止する。
1. 戒厳令と新聞統制とは?
この「緊急勅令第205号・206号」は、1905年(明治38年)9月、日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)締結直後に発布されたものでした。講和の内容(賠償金ゼロ、領土も一部のみ獲得)に激怒した国民が全国で暴動を起こし、中でも東京では「日比谷焼打事件」が発生。警視庁や新聞社が焼き討ちされ、多数の死傷者が出ました。これに恐れをなした政府は、暴動を抑えるために戒厳令(軍による治安統制)を発布し、同時に、政府を批判する記事や社説を封じるために新聞発行停止の緊急勅令を出したのです。
2. 二つの緊急勅令の内容
勅令番号 内容 発布日
第205号 東京市に戒厳令を施行する 1905年9月5日
第206号 新聞紙・通信社の検閲と発行停止命令を可能にする 同上
これにより、政府批判の記事はことごとく削除・差し止めとなり、朝日・毎日・国民新聞など、多くの報道機関が発行停止に追い込まれました。
3. 廃止の意味(1905年11月)
戦争も終わり、世論もようやく落ち着きを見せ始めた11月末、政府はようやくこれらの非常措置を撤廃しました。
つまりこの記事は、「戦時体制から平時の憲政へ戻る」**という転換点を伝えるものです。新聞の自由が回復し、民間報道が再び動き出した象徴的なニュースでした。
4. 憲法上のポイント:「第8条」の緊急勅令
文中にある「帝国憲法第八条」とは、政府が国会閉会中でも緊急時に天皇の名で法律に代わる勅令を出せる、という条文です。この制度は戦時中や内乱時に多用されましたが、一方で「立憲政治を形骸化させる抜け道」とも批判されていました。
今回、同条に基づく勅令の廃止が公布されたことは、「天皇大権による非常政治の終息」=立憲制の正常化を意味しています。
5. 歴史的意義
この勅令廃止は、明治日本における「言論・報道の自由回復」と「市民社会への復帰」の重要な一歩でした。日比谷焼打事件をきっかけに一時的に軍政化した東京が、ようやく通常の法秩序と自由な報道を取り戻したのです。


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