(1907〈明治40〉年8月11日『東京朝日新聞』)
鉄道庁は、まず第一段階として山手線に電車を導入することを決定した。現在ある駅のほかに、交通の要所には新たな停留所を設ける予定であり、三田煙草製造所付近にも新しい停留所を設置する。
また、上野では停留所を現在の駅構内の石炭置き場(貯炭場)に引込線を設けて本線と接続する計画である。
運転間隔は、
・上野~新橋間:12分ごと
・赤羽~池袋間:30分ごと
となる予定である。
旅客輸送はすべて電車が担当し、貨物輸送は従来どおり蒸気機関車による貨物列車で行う方針である。
なお、この電車に必要な電力は、甲武鉄道柏木発電所の余剰電力を利用する予定である。
⚫︎ 山手線電化計画の始まり
この記事は、日本の鉄道史における山手線電化計画を伝えるものです。
現在では電車が当たり前となっている山手線ですが、1907年当時はまだ蒸気機関車が客車を牽引する鉄道でした。
明治後期になると、
- 東京市街地の人口増加
- 通勤・通学客の急増
- 蒸気機関車による煙や煤煙の問題
などから、都市部では電車化が求められるようになりました。
この記事は、その正式な計画決定を報じています。
⚫︎ 実際の電化は1909年
1907年に計画が発表されましたが、工事には時間を要しました。
主な流れは次のとおりです。
| 年 | 出来事 |
| 1906年 | 鉄道国有法により甲武鉄道などが国有化 |
| 1907年 | 山手線電化計画決定(本記事) |
| 1909年 | 池袋~田端~品川~新橋間などで電車運転開始 |
| 1910年 | 環状運転へ向け整備が進む |
このため、本記事は山手線電化計画の出発点を記録した史料といえます。
⚫︎ なぜ電車化が必要だったのか
「蒸気機関車の問題」
蒸気機関車は
- 煙
- 煤(すす)
- 騒音
- 加速の遅さ
という欠点がありました。
都市交通では停車駅が多いため、素早く発車・停車できる電車が適していました。
「旅客と貨物の分離」
この記事には「旅客はすべて電車、貨物は蒸気列車」とあります。
これは現在でも都市鉄道の基本となる考え方です。
- 電車は高頻度運転
- 貨物列車は別に運行
という役割分担を採用することで、輸送効率を高めようとしていました。
⚫︎ 甲武鉄道柏木発電所
記事には、「甲武電鉄柏木発電所の余剰電力」を利用するとあります。
⚫︎ 甲武鉄道とは
甲武鉄道は、
現在の
- 中央線
- 中央本線
の前身となる鉄道会社です。
同社は早くから電車運転を行っており、自前の発電所も保有していました。
鉄道国有化(1906年)の後も、その発電設備は国有鉄道に引き継がれ、山手線電化に活用されました。
⚫︎ 現在の山手線との違い
当時の山手線は、現在のような完全な環状線ではありませんでした。
1907年時点では
- 新橋
- 品川
- 池袋
- 赤羽
- 上野
などを結ぶ路線として整備が進められていました。
現在のような環状運転が完成するのは1925(大正14)年、神田~上野間が開通してからです。
したがって、この記事は「山手線の電車化」であって、「現在の環状山手線」の完成を意味するものではありません。
⚫︎ まとめ
この記事は、鉄道庁が山手線への電車導入を正式に決定したことを伝えるニュースです。
当時の東京では都市化が急速に進み、蒸気機関車による輸送では需要に対応しきれなくなっていました。
そのため、
- 山手線を電車化する
- 新しい停留所を設ける
- 旅客輸送を電車へ移行する
- 貨物輸送は蒸気列車に分離する
という近代的な都市鉄道構想が打ち出されました。
この計画は1909年以降に実現し、現在のJR山手線へと発展していきます。都市交通の近代化を象徴する重要な転換点を伝える記事といえるでしょう。


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