(12月5日付 東京朝日新聞)
東京帝国大学総長・山川健次郎氏が辞職した真相について聞くところによれば、山川氏は、法科大学教授・戸水寛人博士に休職命令が出された際、直ちに文部省(主務省)に出向き、その処分はまったく不当であるとして強く抗議したという。さらに山川氏は、「もし戸水博士を復職させないのであれば、大学教授たちが一斉に反抗する事態となる」と警告した。
しかし当局(文部省)は態度を変えず、結局この事件は、「戸水博士の休職問題」=東京帝国大学と文部省との対立へと発展し、その影響は京都帝国大学にまで広がった。
こうした事態に至った以上、山川氏としては大学教授団を支持せざるを得なかったが、もとより山川氏は性格上、「上官に逆らって下を扇動するようなことは本意ではない」と考え、ついに辞意を固めた次第である。
1. 事件の概要
戸水寛人(とみず ひろと)は、東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)の教授で、憲法学・政治学の専門家でした。彼は日露戦争後の日本外交を批判する意見書を政府に提出したことを理由に、1905年11月、文部省から休職処分を受けました。これが「戸水寛人休職事件」です。
2. 事件の経緯
(1)「七博士意見書」の提出
1905年(明治38年)9月、日露戦争がポーツマス条約で終結すると、講和条件(特に「賠償金ゼロ」)に不満を抱く世論が爆発しました(※日比谷焼打事件など)。その最中、戸水寛人ら東京帝国大学法科大学の教授7名(いわゆる「七博士」)は、伊藤博文や桂太郎ら政府首脳に対して次のような意見書を提出しました。
「講和条約は国体を辱めるものであり、政府は国民の意志に反している」
「外交を改め、より強硬な国策を採るべきである」
この意見書は大学を代表するものではなく、私的な政治意見でした。
しかし、それが「政府批判」かつ「官立大学教授による政治運動」とみなされ、問題となりました。
(2)文部省の反応
当時の文部大臣・西園寺公望(後の首相)は、大学教授が政治運動を行うことを「官吏の政治関与」として不適切と判断し、その中でも最も中心的だった戸水寛人博士に休職命令を出しました。これに対し、東京帝大内部では激しい反発が起こり、教授団は「学問の自由の侵害」として抗議しました。
(3)大学側の反発と山川総長の辞任
山川健次郎総長(理学者)は、当初は政府との調整を試みましたが、文部省が処分を撤回しないため、「このままでは大学の自治が失われる」として、総長職を辞任。記事のとおり、これが「戸水事件の爆発」であり、さらに法科大学教授たちが「連帯辞職」を検討する騒動となりました。
3. 事件の本質:学問の自由 vs. 政府統制
この事件は、日本近代史において最初の大規模な「学問の自由」と「大学自治」をめぐる政治事件です。
• 政府側:「国立大学の教授は官吏であり、政治的意見表明は許されない」
• 大学側:「学者は自由に意見を述べる権利がある」
という対立構図でした。
この論争は、のちに「滝川事件(1933)」や「天皇機関説事件」など、戦前の学問統制へとつながる先例としても重要視されます。
4. 戸水寛人のその後
戸水は休職処分のまま大学を去り、のちに復職することはありませんでした。
しかし、彼は生涯「国家主義的学者」として活動を続け、戦後まで「学問の独立」を主張し続けました。


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